宸翰本和泉式部集 112
1580春雨のふるにつけてぞ、世の中のうきはあはれとおもひしらるる。
もの思ひの無かりし雨は無かりけり、まして花散る春のころには。 もぐら
我ひとり憂かりしなり、と思ひゐしに、世なべて憂しとふ春の雨かな。 もぐら
1581をしと思ふをりやありけむ、ありふればいとかくばかりうかりける身を。
ひとたびのうつし世なれば、いづ方へ往ぬとも憂さは憂きにてあるべし。 もぐら
あけくれはあけくれゆゑに、人の世のをしきはけふも変らざりけり。 もぐら
1582いかばかりふかき海とかなりぬらむ、ちりの水だに山とつもれば。
恨みゐし人のこころの今如何に、知らず早瀬も淵となりゐむ。 もぐら
憂しと思ひしころに流せし涙、今わだつみとなり板小舟浮く。 もぐら
つれづれなりしをり、..
1583ゆふぐれはさながら夢になしはてて、やみてふことのなからましかば。
見るべきの夢さへ無かりし夕べには、ただ寝るさへも虚しかりけり。 もぐら
明けむとてなほも明けざる宵の果てに、見る夢とても儚なかりけり。 もぐら
1584おしなべて春をさくらになしはてて、やみてふことのなからましかば。
春の女神さきはひ給ふ花なれば、夜の闇さへ白くしありけり。 もぐら
春は何時、と知らぬこころを嗤ふごとく、花ひとひらは散り給ひけり。 もぐら
1585みな人をおなじ心になしはてて、おもふおもはぬなからましかば。
我人を知るが如くに、人我を知らば、と思ひて叶はざりけり。 もぐら
我知りて、人はえ知らであることを、憎しと思ふことに馴れにけり。 もぐら
人にさだめさせまほしき事
1586いづれをか、世になかれ、とはおもふべき。わするる人とわすらるる身と。
忘れむとして忘られぬことよりも、覚えむとして忘るること多し。 もぐら
忘れじ、と言ひつつ忘れし人憎し。忘れもえせざる人また憎しも。 もぐら
1587なき人となして戀ひん、と、ありながら、あひ見ざらん、といづれまされり。
悲しきは人の身にして、世の人に忘れられゐてなほもあること。 もぐら
あり給ふ限りは恋ひむの契りゆゑ、明日の身知らぬ我し悲しも。 もぐら
あやしきこと
1588世の中にあやしきことは、しかすがにおもはぬ人をおもふなりけり。
思はじと思ひしがゆゑに思ふならむ。人の業はし果て無きものなり。 もぐら
叶はじの人恋ひなれど、命あらむ限りはさらむ、と恋ひ渡るなり。 もぐら
1589よのなかにあやしきことは、いとふ身のあらじとおもふに、をしきなりけり。
厭ふにはあらじとしても、厭ひ給ふ人のみ多き憂き世なりけり。 もぐら
もの知らぬままに厭ふとふ人多きゆゑに、憂き世と言ふにありけり。 もぐら
たのめたるをとこを、..
1590竹の葉にあられふる夜は、さらさらにひとりは寝べき心ちこそせね。
夢のごとありけるけふを忘れむとして、なほ夢を見むと寝るかな。 もぐら
ひとりして寝し夜もふたりゐし夜も、笹なる露は同じと思へど。 もぐら
人かたらひたるをとこの方より、..
1591いさや又かはるもしらず、いまこそは人の心をみてもならはめ。
ありあらぬことども書きし文のみの来て、さうじ身は来給はぬなり。 もぐら
心より来る文なれば、えもしらぬ文はしえしらぬ心よりならむ。 もぐら
たのめてこぬ人に、つとめて
1592やすらひにまきの戸をこそささざらめ、いかにあけつる冬の夜ならん。
ささむとてえささぬ柴の戸がゆゑに、来むとふ人は来るがままなり。 もぐら
柴の戸をさすかささぬかかつ迷ひ、きのふの宵は明けにけるかな。 もぐら
雨のいたうふるに、..
1593見し人にわすられてふるそでにこそ、身をしる雨はいつもをやまね。
忘れむ、のこころのなくて忘れしは、人ゆゑなれどなほも儚し。 もぐら
濡れむ、との心なけれど我が袖の濡るるは、けさ降る雨ゆゑならじ。 もぐら
世のさわがしきころ
1594物をのみおもひしほどに、はかなくて、あさぢがすゑに世はなりにけり。
あらむとて頼みし人の儚くて、力の絶えし如くに思ほゆ。 もぐら
あさまし、と思ひし男のきのふけふひひろぎゐるこそ憎くありけれ。 もぐら
1595しのぶべき人なき身にはあるをりに、あはれあはれといひやおかまし。
ひとことのあはれ言ひ捨て往にし人のあはれは、明日の水に流さむ。 もぐら
あはれ、とはきのふの夢と思ひなして、あすはし西の涯に消えなむ。 もぐら
ひさしくとはぬ人の、..
1596なかなかにうかりしままにやみにせば、わするるほどになりもしなまし。
忘れじ、と言ひてし人を忘れては、詮なきことのみ思ひ出だしつ。 もぐら
憂しとなし忘れむとせし人のなほ、けふは如何といふが口惜しさ。 もぐら
時々くる人の、..
1597ながめつつことありがほにくらしても、かならず夢に見えばこそあらめ。
夏の夜の夢に見てしを、現世の秋の涙に流しけるかな。 もぐら
思はじ、と思ひしことの夢に出づる、現世ゆゑの夏の宵かな。 もぐら
よの中いたくさわがしきころ、..
1598よのなかはいかになり行く物とてや、こころのどかにおとづれもせぬ。
ユーロ買ひポンド買ひしは高き折なりし、と今更悔やむ由なし。 もぐら
腹減りし人増えゆけば、世の中に怨嗟の声の満つるなりけり。 もぐら
和泉式部歌集 清水文雄校訂
岩波文庫 30-017-2 1976年6月30日 第12刷 岩波書店