短歌の技法 藤井 陽一 MAG00736@nifty.ne.jp ■はじめに■  バッハには及びもしませんが、「短歌の技法」というシリーズを書かせて下さい。御一緒に、短歌を勉強して参りたいと思います。  この雑誌が始められるというので、短歌についてなにか書かないか、というたいへん光栄なお誘いがありました。それで、以前、短歌フォーラムの会議室に書かせて頂きました拙文を再構成して載せさせて頂きたいと思います。  これは、パソコン通信の画面という制約があるために、十分に御説明できなかったこともあり、また、当時から、会員始め、いろいろな方からの御批判、御意見も多かったところです。それでこれらへの御回答、御説明も盛り込み、この再構成判と致します。従って、項目の配列がランダムであることは御勘弁下さい。これからも発展させて行きたいと思います。  引用短歌の番号は、原書のページ.行。句読点は私が付けたものもあります。  この文についての御批判、御質問は、大歓迎です。 ■短歌の技法1 心■  短歌で一番大切なもの。それは、心です。  これも御批判が多くありました。 Q 心とは誰の心か。 A 作者、主人公登場人物、と、読者の心です。一番基礎となるのは、作者の心です。 Q 心だけで短歌ができるのか。 A 勿論、心だけでは短歌はできません。ことばに関する技術が必要です。これについては別の項目で逐次御説明したいと思います。 Q 心をどうして短歌にするのか。 A 心を最も的確に記述して短歌を作るのです。 Q あなたの短歌には皆匂いがある。 A 心を感じられたのかもしれませんね。 ■短歌の技法2 基準文体■  短歌には、どういう文体、どういうことばを使ってもいいのです。短歌専門の、短歌文体、というものはありません。  たとえば、文語文体、にも、標準文語文体のほかに、万葉集の用語、平安時代の、中世の、江戸時代の、擬古文体、明治時代の、といろいろです。口語文体でも、標準口語のほかに、会話文体、といっても、千差万別。子ギャル語など。また、関西弁などの方言も利用可能です。難しい、琉球方言。そして、リズムを生かせれば、英語でも、ドイツ語でも、可能です。  お歌をお作りになるときは、上記のいろいろの文体の内から、先ず基準とするお好きな一つの文体をお選び下さい。その文体を基準にして、お歌を作りましょう。これを、「基準文体」と呼ぶことにします。  これも御批判が多かったところです。 Q 短歌は短歌風、俳句は俳句風の文体を使うのが当然ではないのか。 A いいえ。最適な文体を選ぶことが基本です。なになに風は、マンネリ化し、間違いが生じます。 Q 現代短歌では、基準文体は意識されていない。 A これはたいへん残念なことで、ぜひ、御検討、御活用下さい、と申し上げたいです。Q いろいろな文体を使って、何の役に立つのか。 A それぞれの文体が持つ時代背景社会背景、人物の特徴を利用することによって、主人公の心を良く表現する基本的ツールとすることができます。 Q 文体は作者がつくるものだ。 A いいえ。世の中にあるいろいろな文体を使って作者が心を表すのです。 ■短歌の技法3 改行の仕方■  短歌の改行の仕方には、先ず強制改行と任意改行があります。これと、縦書き、横書き、という区別は勿論あります。  強制改行とは、上の句下の句、五七五七七など、機械的に改行するもの。たとえば 「強制縦一行改行」 娘とはいかなるものか知らずかし若き頃にも父となりても 「強制縦二行改行」 娘とはいかなるものか知らずかし 若き頃にも父となりても 「強制縦五行改行」 娘とは いかなるものか 知らずかし 若き頃にも 父となりても 「強制縦N字改行(Nは六字)」 娘とはいかな るものか知ら ずかし若き頃 にも父となり ても 印刷の都合等で一定の字数で改行するわけです。  任意改行とは、意味の切れるところで改行するわけです。たとえば 「任意縦三行改行」 娘とは いかなるものか知らずかし 若き頃にも父となりても 「任意縦四行」 娘とは いかなるものか知らずかし 若き頃にも 父となりても  改行にいろいろな形がありますから、短歌は、改行無依存としたいものです。つまり、短歌は、基本的に、一行詩である、ということです。  パソコン通信では、普通強制横一行を原則としています。  これにもいろいろ御批判がありました。 Q 石川啄木のように改行を入れている作者がいるが。 A 啄木の名歌は、殆どの日本人が覚えています。しかし、それが任意三行改行になっているということは、殆どの日本人は知りません。改行の檻から放たれて、歌は、人々の心の中へ飛翔して行った、のです。つまり、短歌に改行を入れるという考えは殆ど破産状態だ、と思います。 Q 五行詩というものがあるが。 A これは短歌とは別物だ、と思います。 Q 強制二、五行改行は作りやすい。 A 確かに、私自身も含めて、初心の方の御投歌は、強制二、五行改行が多いです。これは、リズムが取りやすいからです。しかし馴れて来られると、強制一行改行で書けるようになります。リズムが自由に取れるようになるからです。 Q 強制、ということばは強すぎる。 A いろいろ考えたのですが、形が既に決まっている、という意味です。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= 短歌の技法 藤井 陽一 MAG00736@nifty.ne.jp -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法四 じ と ず■  「じ」も「ず」も、【否定】です。違いは、 「ず」は【現在の否定】ですが、 「じ」は【未来の否定】とお考え下さい。  従って、未来の否定的想像、推量、未来の否定的意志を意味することになります。  用例は、「じ」は、萬葉−王朝−擬古文までで、普通の標準文語文ではあまり使われない、ということです。標準文語文では、「じ」の代わりを、「べからず」、「しめず」、「ざるべし」などが務めています。この変化の原因は、中古以後の時制感の変化によるものだ、と思います。  以前の「じ」と「ず」の違いの御質問からです。 Q 「じ」と「ず」の違いは。 A 上述のようですが、「じ」は、決意、意志的要素が強いので、強調の意味になります。また、使う文体は、擬古文まで、とお考え下さい。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法五 六八拍、八八拍■   あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 額田王   というお歌を、ゆっくり、普通に、声を出してお読み下さい。そうすると、   あかねさす□ ムラサキ野行き□ シメ野行き□ 野モリは見ずや□ キミがソデ振る□   という風に、各句の後ろに、一拍の休止があるのがわかると思います。□は、休止、という約束にします。つまり、音楽と同じように、短歌にも休止符があるということがわかります。これを六八拍と言います。  これは、字剰り許容論と関係があるのですが、六拍、八拍の字余りが普通許されるのも、その休止符を流用しているだけで、音律には影響が少ないからという理由です。    更に、もう一度ゆっくりお歌を音読して下さい。そうすると、   あかねさす□□□ ムラサキ野行き□ シメ野行き□□□ 野モリは見ずや□ キミがソデ振る□ □□□□□□□□   という風に、五字の句の後ろには、長い休止符があり、結局すべて8拍になっているのがわかると思います。これを八八拍と言います。これらが短歌の基本的な拍構造になっています。  これは、グローバルな、二拍四拍のリズムになりますから、たいへん合理的であると言えます。  また字剰り論ですが、五音のところの七字、七音のところの九字の字余りは、上記の拍構造を乱すので、特別な理由のない限り避けたほうがいい、ということになります。  逆に、字足らずですが、四字、六字の字足らずは、上記拍構造に対して不安定な感じを与えるので、特殊な効果を期待する以外は、十分に注意する必要があります。 Q この六八拍は、一般に認識されているのか。 A 残念ながら、この件は、一般には、知られざる日本語状態です。ただ、気がついている方も居られるようで、ウェブ上で同様のことをおっしゃって居られる方もおられます。しかし、その方いわく、歌壇では、この考えに反対される方が居られるとか。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法六 短歌の音楽的要素■  短歌も、定形詩の一つですから、音楽的要素が不可欠です。作歌には、音楽をお聴きになることをぜひお勧めしたい、と思います。ロック、ポップ、からOKもOKと思いますが、本当は、いろいろな優れたパターンの集積であるクラシックを広くお聴きになることをお勧めしています。かならず、作歌の基礎となる、と信じています。  これは、直接にある特定の音楽に基づいて、短歌にイメージを与える、というよりも、音楽の構造と、短歌の構造とが共通の基礎に立っているということを会得することが大切なのだ、という理由です。  音楽的要素の中で、最も大切な概念は、リズムパターンです。  短歌には、五七五七七正しくは六八六八八という基礎リズムがあります。 だけではなくて、その上に乗った「リズムパターン」という要素をお考え下さい。   音楽では、たとえば、四拍子の曲といっても、タ、タ、タ、タ、という繰り返しだけではなくて(音符が書けないので、御想像下さい。)タータッ、タータッとか、タータタタータッとか、ッタタタッタタタとか、実にいろいろなパターンがあって、その上に旋律が乗っています。  短歌でも同様に、基礎リズムの上に、リズムパターンが乗っています。そのとき、タータタを決めるのは、単語とその意味です。五六七八..をどういう単語で分けて利用するか、で、リズムパターンが決まります。 Q なるほど、音楽を聞きながら、短歌を作るのは素晴らしい。 A 確かに、素晴らしい。私も良く致します。音楽は、最も短歌に霊感を与えるものであると思います。しかし、此処で申し上げたのは、そういう特定の音楽についてではなくて、短歌の構造が、音楽的構成をもっている、ということです。 Q リズムパターンとは何か。 A 確かに、これは、音楽の旋律を作る上ではごく当たり前のことなのですが、短歌の場合は、あまり良く理解されていないように思います。初心の方が、五七五七七という枠にぴっちりはめたお歌を作られますが、これが良い例ではないか、と思います。いろいろなお歌を研究され、さらに新しいリズムパターンを開発されることによって、作歌の可能性が広がると思います。 Q リズムパターンには、どのようなものがあるか。 A リズムパターンには、いろいろなものがあり、また、いろいろなものが開発可能です。音楽のメロディーが、たくさんあるのと同じです。一番ありふれたものは、上五七五下七七で、上記の「あかねさす・・」のお歌もそうです。そのほかに、五七・五・七七、五・七五七・七、五七五・七・七などが普通にみられます。五七は勿論、六八と解釈して下さい。このほかに、5、7を途中で分割する、音楽用語でスラー、あるいは句またがり、五七の頭一字を次ぎに繰り入れる、音楽用語でシンコペーションという技術も可能です。 Q リズムパターンを獲得するためにはどうすればよいか。 A 五七五七七のマンネリズムに依らず、実際の会話のリズム、いろいろな音楽のリズムを体得することが大切だ、と思います。既成の歌人の方にも、リズム感のあまり良くない方がおられますので.. -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法七 直接・間接話法■  たとえば、今、なにか馬鹿なことをしている人がいて、その人のことを歌いたい、とします。 ●あそこに、あんな馬鹿なことしている奴がいる...... と歌うのを、間接話法といいます。 ●ああ、俺は、なんて馬鹿なことをするんだ...... と歌うのを、直接話法といいます。  つまり、ある現象も、いろいろな立場から歌うことができる、ということです。これは、短歌の可能性を大きく拡げるものです。短歌も、本質的には、普通の文学と同じですから、作品の著者と作品の主人公は、一般には同じではありません。勿論、主人公すなわち作者でもよろしいのですが、可能性を拡げるためには、主人公を誰にするか、は、作者が、目的に応じて自由に決めることができるのです。 Q 自分の気持ちさえわからないのに、他人の気持ちなんてわからない。 A 逆にいうと、他人の気持ちを理解出来なければ、自分の気持ちを読者に理解してもらうように表現できないのではないのでしょうか。 Q 自分のことでもないことを歌うのは、嘘ではないのか。 A 短歌も文学である以上、すべての人のこころの真実を歌うことができます。自分以外の人について述べることは嘘だ、とすると、シェークスピアなどは、さしずめ、大嘘つきですね。 Q 短歌は一人称の文学と言われているが。 A 伝統的に、自己の感慨を述べる、という趣旨の短歌が多いことは確かです。しかし、短歌も、文学の一ジャンルである以上、上記の理由で、自己以外のいろいろな主人公の感慨を述べることができるはずです。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法八 係結の規則■    擬古文体より古い文体を基準文体になさるときは、係結の規則を厳格にお守り下さい。これを守らないと、単なる無知と思われるからです。  係結の規則は、とても単純です。   ぞ、なむ、や、か、連体形にて結ぶこそ、依然(已然)変わらぬ規則なりけれ。   という有名な暗記用のお歌で、ぜひ、御記憶になって下さい。  しかし、典型的な平安朝文体、擬古文体以外の体では、少しずつ例外が発生しています。たとえば、標準文語文体では基本的に、係結は使われません。  例外は、次ぎのような場合に発生します。 ・無知 規則習慣を知らないために何となく語呂だけから使う。特に、江戸後期の「蕪村文体」では、著者の勉強不足から、この種類の例外が多く発生しています。 ・名詞の省略 係結は連体形で終わるので、ぞ、や、などがなくても、次ぎに、こと、もの、などの名詞が省略されている、と考えられる場合があります。 ・疑問形の場合 や、か が無くても、全体として、疑問の意味を表している場合、連体形で結ぶ場合があります。 ・命令形との混同 こそ の係結は已然形ですが、四段活用では命令形と同じ形であるため、命令の意味と混同されることがあります。  係結は、普通の単純な直叙文と同じように使うことはできません。係結は、また、単純な詠嘆、あるいは、強調でもありません。係結は、現実に起こらないことを述べる反実叙述、仮定叙述の場合に使われます。ドイツ語、ラテン語などに見られる、接続法の用法と類似しています。 Q 係結規則は、現在は守る必要がないのではないか。 A 係結規則は、現在でも、該当する文体、擬古文体では、厳密に守る必要があります。もし、守りたくない場合は、文語文体の中でも、比較的新しい、明治時代以降の標準文語文体をお使いになれば、係結そのものが不必要になります。 Q 反実、仮定叙述は、係結をつかわなければならないのか。 A 現代の口語文体は勿論、係結のない文体の場合は、反実、仮定の意味は、副詞で表現されるようになりました。たとえば はず かもしれない などといういろいろな表現を使って仮定反実を表すことができます。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法九 完了体・継続体■    過去、現在、未来、という「時制」のほかに、文法では、完了体、継続体 という 概念があります。  完了体(完成体、など..)は、ある動作が1回おこなわれることを表します。  継続体(不完了体、.. )は、ある動作が継続して行われることを示します。  ロシア語は、同じ動詞にもこのそれぞれに別別の形がある、というので有名です。たとえば、「こちらはモスクワ放送局です」は、ロシア語では、”Говорит Москва(話すсказатьの継続体)”ですが、英語では、"Moscow calling." というように、現在分詞、現在進行形で継続を表します。  つまり、英語では、動詞は原則、完了体である、ということです。日本語の場合も現代語、古語とも同様で、原則、完了体です。しかし、フランス語、中国語などでは原則継続体のようですね。国語によって違います。  日本語では、原則、完了体(あり、とか、いる、などを除いて)ですから、継続体として表現する場合は、 けり、たり などの、あり複合助動詞、ている、などの補助動詞、 −あふ という延言動詞形  連体形+期間をあらわす、日々、年月などの名詞を使います。  また、逆に、完了体として表現するばあいは、き、た などの、お話し(回想)、完了の助詞、連体形+時点をあらわす、瞬間、時、日などの名詞を御利用下さい。  なお、形容詞は、性質をあらわすのですから、どこでも、普通、継続体としての意味をもちます。日本語の形容表現は、なり、とかの継続体動詞とともに使い、あるいは、形容動詞のように名詞的な扱いになります。 Q 完了、継続を、短歌の場合に意識する必要があるのか。 A 短歌の場合は、この問題に限らず、使用する語数が少ないので、それぞれの語の意味を明確にしないと、意図を正しく伝えることができないことが起こります。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法十 完了の助動詞表現■  古語、とくに、平安時代の文体から擬古文体については、完了の表現、完了の 助動詞ががいろいろあります。 ・ぬ 否定完了  ある動作が完了したとき、それが完了する前の状態を主として述べる。連用形に付きます。 暮れかかりぬれど、おこらせ給はずなりぬるにこそはあめれ。(源・若紫) という文例では、「現在は日が暮れている」のですが、言いたい点は、日が暮れる以前の昼間において、「おこらせ給はず=発作が起きなかった」ということです。つまり、夕方という現在以前にポイントがあります。つまり、完了する、という動作ではなく、それ以前の未完成のときのことがポイントになっています。  そういうわけで、現在を否定したり、諦めたりするときに使いますので、消極完了、不作為完了などと考えることができます。従って、自動詞につくことが多い、ということになります。  この、「否定完了」という概念が忘れられるようになった結果、中世以前に使われることがなくなりました。従って、現在の標準文語体文ではつかわれません。しかし、擬古文体において復活したのが、文学、短歌に入り込み、普通の一般的な意味の完了として使われる場合が現在多いです。しかし、これは本来誤用である、ということに御注意下さい。つまり、この、ぬ は、王朝〜擬古文体を前提とする、ということに、御注意下さい。 ・つ 生起完了  ある動作が、生起して、完了しこと、そして完了した後のことについて述べる。現在の口語の、「ちゃった」と非常に良く似ているので、ちゃった完了ということばが便利でしょう。連用形に付きます。 雀の子を犬君が逃がしつる。伏篭の中に篭めたりつるものを。(源・若紫) というのが、一番いい文例でしょう。「ワンワンが逃がしちゃった。」ですものね。逃がしちゃったので、現在は雀さんはいない、と言いたいのです。  そういうわけで、完了した結果を強調するために使いますので、積極完了、強調完了などと考えることができます。従って、他動詞につくことが多いのです。  中世まで使われていましたが、繰り返しの つつ と混同されるようになり、現在の、標準文語文体では使われなくなりました。この、つ も、王朝〜擬古文体を前提とする、ということに、御注意下さい。 ・り 継続完了  完了体の動詞を継続体に変えるような役目をします。形式的には已然形に付きますが、本来は、連用形に付きます。つまり、「書けり」=已然形+り ですが、kakeri=kaki+ari, i+a=e という万葉以前の音韻変化によって、已然形に付くように見えるのです。ですから、「す」については、「せりseri=si+ari」で、「すれり」ではないのです。  この理由で、この り は、四段活用の動詞と、す く にしかつきません。 春日野はけふはな焼きそ。若草のつまもこもれり、我もこもれり。(古今・春上) という文例では、「こもる=隠れる、という一回動作」という完了体動詞を「こもれり=隠れている」という継続体動詞に変化させています。  上下二段活用動詞には、上記の理由で、この り は使えないので、下記の たり をつかいます。但し、意味は、少し変わっています。とくに、後世、四段活用動詞にも、 たり を使うようになったので、その傾向が顕著です。この形式は、近代の標準文語体では、「た」と同じような一般の完了のような意味に変化して使われています。 ・たり 存在完了  ある完了体動詞の動作の結果が、現在も続いていることを示します。te+ari で、勿論、連用形に付きます。 しれものははしりかかりたれば、おびえまどひて(枕) ばかもの(翁丸という犬)が猫(命婦のおもと)に飛びかかった、という結果、猫さんは、おびえて....ということで、単に飛びかかったというより、しつこく追いかけ回したのだ、ということがわかります。(その結果、翁丸君は、あとで、散々虐められることになる。)  この、たり は、現在の標準文語文では、継続的な完了という意味で、非常に広く使われるようになりました。  上記のように、完了の助動詞の意味は、文体によって変わります。採用された基準文体と、その意味に対して、最も適当なものをお選び下さい。単純に、口語の た=ぬ ではない、ということに御注意下さい。とくに、現在の短歌では、殆ど誤用の塊ですので、参考にはなさらないことをお勧めしています。 Q 口語の た は、どうすればいいのか。 A 此処では書きませんでしたが、文語には、完了のほかに、過去 き というのがあります。これは、口語の た と異なり、反実的な過去の現象を説明するときに使います。英語の過去形が、同様な意味を持っています。昔昔の「お話しの過去」と御記憶下さい。現在の口語では、た は、このお話しの過去だけではなく、完了/未完了という対立の上での完了です。ですから、た は、文語文体、特に、平安朝の文体では、一対一に対応するものがなく、た ていた ちゃった など、ほかの副詞、話しのニュアンス、前後関係を考えて、最も適当なものをお使い下さい。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法十一 短詩形の分類■  日本文学の定形詩には、いろいろな種類の詩形の短詩があります。  詩形のいろいろ 五七五七七  短歌 五七七五七七  旋頭歌 五七五七七七  仏足石体歌 五七五  俳句、川柳  (五七五詩形に対する一般名称はありません。) 七七七五  都々逸  (都々逸は特定の旋律に対する歌詞です。厳密には、三四四三、三四五です。) 五七五七・・・五七七  長歌 五七五七・・・五七  新体詩 八八八六  琉歌  (琉球方言に対してのみ成立します。厳密には三五五三、三五六です。これは都々逸の源流と言われます。) (五七)  標語 などなどです。  問題は、短詩形の分類は、詩形だけでしているわけではなくて、その内容によっても分類されているということです。  例として、短歌、俳句など、都々逸を考えます。 ・内容による分類 詩形   五七五七七  五七五  七七七五 一般名称 短歌     □    都々逸 真面目系 短歌     俳句   □ 諧謔系  短歌(狂歌) 川柳   □ H系   短歌     □    都々逸 標語系  短歌     標語   □ というわけです。  ある詩形が、どんな内容でも表現できているわけではなく、ある特定の内容を表現しているだけなのです。そのそれぞれに、普通よく知られている名称が付けられています。  問題は、その名前がないところ、□、のところです。たとえば、五七五詩形に対する一般名称がありません。これが混乱の元になっています。ほかの□のところも、あるのか、ないのか、おおいに問題です。  実は、これらの名称は内容だけでなく、いろいろな固有の表現法、ローカルルール、習慣などの複合体になっているのです。ですから、実態は、内容で分類されている、というより、人すなわち作者、結社(つまり選者)、読者による分類と考えたほうがいいでしょう。つまり、どういう人たちがやっているか、というのが分類のポイントです。  たとえば: ・人と集まりによる分類 真面目系  五七五七七 大伴家持、藤原定家、与謝野晶子、俵万智        (新古今集系、アララギなど)  五七五 芭蕉、蕪村、虚子、黛まどかなど        (蕉門、ホトトギスなど)  七七七五 □         諧謔系  五七五七七 蜀山人など  五七五 柳樽、サラ川  七七七五 □ H系  五七五七七 ナントカさん  五七五 □  七七七五 都々逸坊扇歌 標語系  五七五七七 神主さん  五七五 公安委員会  七七七五 □  上記のように、俳句は、範囲が狭いので、それぞれの作者、結社によって、いろいろなローカルルールがあります。たとえば、有季、無季などというのは、その結社の規約のようなものだ、とお考え下さい。  短歌の場合は、一般名称ですので、それぞれの作者の方針、結社の規約はありますが、短歌、という名称はいろいろなものを包含していますので、短歌全体として考えれば、一応何でも表現可能です。  詩形と内容によって、定形短詩がどう変わるか、というのは、次ぎのような例を比較して頂きますれば判りやすいと思います。※印が元です。 真面目系: うるはしき主にあでやかの客ありて、雷鳴とても艶にありけり。 もぐら ※春雷や女主に女客 星野立子 艶なものだよかみなり様は、女のお客にゃトンカラリ。 もぐら 滑稽系: うちらかて亭主のぐうたらむかつくで、胃腸も子宮もみんなむかつく。 もぐら ※胃じゃなくて チョーがむかつく 女子高生  胃腸薬(サラ川9七) キレて困るは堪忍ぶくろ、お袋泣かせる女子高生。 もぐら H系: おい烏、あいつの□□□□啄ばんで、二度と立たないやうにしてやれ。 もぐら うなじ白き人とは、春の明烏。 もぐら ※三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい。 都々逸 標語系: 情実があるはずないとは言わせない。するな接待、されるな接待。 もぐら ※現ナマに手を出すべからず警視庁 お主の性分金癖悪し、接待などには手を出すな。 もぐら Q 俳句と川柳の区別が良く判らなくて質問したのですが、良くわかりました。 A 御参考になってとても嬉しいです。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法十二 意味の連関■  短歌とか、五七五(俳句、川柳)のような短詩では、ある決まったリズムの上に、意味を並べていくわけです。  たとえば、A,B,C,D,....がそれぞれある意味をあらわすとします。 ・AAAAA 同じAという意味が五回。これは詰まらないですね。 春 春 春 春 春  などという場合です。 ・AKFYS これは、五種類の意味があるので、意味深長ですが、何故、Aの次ぎにKが出てくるのか、Fの次ぎがYなのか、不明です。こういう場合、この短詩の中で、Fの次ぎは、やはりYでなければならないということが自然にわかるように、読者に説明されていなければならないと思います。従って、意味の単なる羅列に終わらないためには、十分に、ことばの連関を考える必要があります。 春 消費税 松田聖子 電磁気学 保育器 などという場合です。 ・ABCDE これも同じ五種類の意味がありますが、前の場合と比べて、意味の連関を容易に取ることができます。つまり、普通の読者は、アルファベットの字の順序を知っている、と、仮定できるからです。そういう場合、それぞれの要素の意味の連関を特に説明しないでも、五種類の意味を述べることができるわけです。 春 花 咲く 散る 悲しい などというのが例です。 ・AUDIO これも、五種類の意味がありますが、オーディオという英語の綴を知っている人には、連関がわかる、というわけで、少し狭い範囲の読者には理解されるでしょう。 春 弓 射る 鹿 秋 などという、ちょっと古典的な連関もあります。 ・ABCDZ これは、突然、最後がEでなくて、Zである、という意外性がポイントになります。従って、Zがポイントになるように、お歌を設計する必要があります。 春 花 咲く 散る 雪 という例をお考え下さい。→花吹雪 という単語の源です。 ・AAAAZ という場合は、更にそうですね。 春 春 春 春 稲妻 などという場合です。  というわけで、お歌を作られる場合、それぞれの意味は勿論ですが、それぞれの意味の連関を考えることが、良いお歌を作る基礎になるということに御留意下さい。意味の連関を考えて良いお歌をお作り下さい。 Q 意味の連関は、読者が勝手に考えれば良いので、作者が考える必要はない。 A 読者は何を考えるかは勿論自由ですが、作者の意図が伝わらない、というのでは文学とは言えないでしょう。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法十三 THINK!■  IBM社製のノートパソコンに、シンクパッド(THINKPAD)という機種があるのをご存じでしょうか。この、名前の中にある THINK(考えよ!)というのは、実は、IBM社の標語です。  最初、このことを知ったときは、アメリカ人は、ものを考えないから、わざわざ標語にしたのだ、とおおいに馬鹿にしたものですが、残念ながら、日本でも、最近は、考えない人が増えたのではないか、とたいへん残念に思っています。  パソコンだけでなくて、短歌でも、やはり、考えることは基本的に必要です。なにかを見たり、なにかを感じたりすることは勿論必要ですが、それだけでは、なにも表現することは出来ず、しっかりした短歌にならない、と思います。十分に、考えて考えて考え抜くことが必要だ、と思います。考えて行けば、何十年、何百年、と時間が掛かるかもしれません。それでも、永遠に生きるためには、必要なことだ、と思います。 Q 考え過ぎると良い短歌が出来ないのではないか。 A 良い短歌を作るためには、考え過ぎることなどないでしょう。単に見たまま、思ったままでは、浅い短歌にしかならないと思います。 Q 何を考えるのか。 A 今見ていることは何故起こったのか。これに関与している人は何を考えているのか。この先どういうことになるのか。こういうことを考えましょう。 Q 何を考えても良いのか。 A 直接関係のない脇道の発想、人の揚げ足取りの発想などは考えるだけ無駄です。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= 短歌の技法 藤井 陽一 MAG00736@nifty.ne.jp -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法十四 詩の多層構造■  短歌に限らず、定型短詩には、いろいろな要素があります。その中でも、詩の構造(structure)はたいへん重要な要素です。いろいろな建築構造物、あるいは、生体の構造のように、詩歌も、複雑で、多層的な構造を持っています。  構造には、詩歌の言語媒体としての外的構造と、言語の持つ意味による内的構造に分けて考えることができるでしょう。我々は、意識的に、あるいは、無意識にでも、これらの構造を理解して、詩歌を作り、鑑賞しています。  外的構造(outer structure) これは言語媒体的な構造です。 第一層 音韻的構造(phonetic structure)  短歌、句のように、日本語の定型短詩では「拍数」がポイントです。しかし、中国語の場合は、音節、英詩等では、韻脚という風に、その言語の特徴によって変わります。 第二層 韻構造(rhyme structure)  漢詩、西洋詩の場合は、定型的尾韻が強制されることになります。日本語の場合は、頭韻的な要素が強いですが、強制されることはなく、任意です。 第三層 句構造(phrase)  要するに、休止をどのように入れるということですが、これはどの定型詩にも存在します。短歌等の場合、拍数だけ、つまり、五七五七七という区切りだけではなく、句を作ることによって区切ることもできます。 第四層 テキスト構造(text structure)  文字にどう書くか、という構造です。文字として表現する場合、日本語の場合、漢字、記号等を用いるために、いつも、三十一文字すなわち六十二バイト、というわけではありません。普通は、四十から八十バイトぐらい、というところでしょうか。  中国語の場合、つまり、漢詩では、一字一音という中国語の原則のために、字数は一定です。ちなみに、中国では普通、定型詩は、五、七字で改行することなく、一行書きにします。五、七で強制改行にして、その下あるいは横に訳を付けるの日本だけの漢文学の習慣のようです。  西洋詩の場合、勿論正書法によってバイト数は変わりますが、日本語のように、仮名か漢字かで2倍違う、ということはありませんので、それほど大きな変化はありません。  内的構造(inner structure)  これは、すべての定型詩について共通です。 第五層 単語構造(meaning structure)  意味を持つ単語の配列です。単に直線的な関連ではなく、前後飛躍した関連も可能です。懸け詞、各種譬喩、ことばの連関などの話題です。 第六層 意味構造(syntactic structure)  単語によって示される意味が持つ構造です。相互の配列と関連です。日本語の場合は、序詞、枕詞、bifurcationなどの話題です。 第七層 全体構造(total structure)  その詩の主張点です。不確定性(uncertainty)、共鳴効果(resonant)、相互作用効果(interactive)などが話題です。  上記のように、短歌に限らず、文学、特に詩は、多層の構造を持って成立していることに御留意下さい。 Q この層構造を意識して短歌を作るのか。 A この議論は、解析的ではありますが、短歌を作られるときは、無意識にしろ、これを考えて居られると思います。短歌を、表面的にのみ見るのではなく、その階層構造をお考え頂くことは、作歌上もたいへんお役に立つのではないか、と思います。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法十五 詩の伝統■  伝統、というのは、歴史的な経緯というより、参加者数、とお考え下さい。 定型詩の場合、上述の第一層音韻的構造からスタートするわけですが、これは、だれか天才の思いつきでできるとしても、それにつづく、上記の第二から第七層の厚い構造を作るためには、大きな集団の参加と努力が必要です。  たとえば、都々逸という形式は、都々逸坊扇歌さんの努力でかなり普及しましたが、その後、いまいちという状態ですね。山頭火さんの不定形も、追随者数次第です。短歌とか、漢詩の五、七絶などは、参加者数の多いメジャーな詩型です。 Q 参加者数の多寡に文学的な意義があるのか。 A 人数の多少、というのは、一見意外ですが、文学的熟成のためには、多くの方の思考が必要なのだ、と御理解下さい。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法十六 禁止表現な−そ■  「な−連用形−そ」は、禁止の意味です。 な書きそ 書くな。書いてはいけない。という感じです。  適用される基準文体は、万葉文体が本場で、王朝文体以降は、真似的です。せいぜい、擬古文体まで、とお考え下さい。  標準文語文体では、使わないほうがよい。「書くべからず。」と書くほうがいいです。  現代口語文では、禁止表現は、終止形+な という形に変わりました。「書くな。」ですね。 Q 表現、というのは何か。 A 表現、というのは、単語の品詞別分類とは次元が異なり、表現したいある内容があったとき、ある場合は、助詞、ある場合は助動詞、ある場合は、名詞であらわすことができるとします。こういうとき、これらは、意味が同じか類似しているので、一括して、表現ということばを使います。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法十七 字あまり■  短歌は、五七五七七という基本リズム型による定型短詩ですので、これから大きくはずれることは、別のリズムの創造、とみなされます。  「字あまり」をどう考えるか、ですが、先ず、休止を入れた、六八六八八、あるいは、八八八八八という基礎リズムパターンをお考え下さい。というより、こちらのほうを、基本とお考え下さい。この範囲で、自由に音と時間をお使いになることができます。この範囲では、実質的に字あまりではないと思います。  上記の範囲から、それでもはみ出すときですが、最後の五句めは、どうせ、これで終わりだからと、九から十音に伸ばす。これは、いろいろな会議で、良くあるパターンですね。  外国語のときは、本国の発音のリズムに準拠する。たとえば、strip は、英語では1音節、日本語では5音節です。外国語のリズムで発音して欲しいときは、原綴を使うといいかもしれません。  シンコペーション、スラーのような高次のリズムを利用して、次ぎへ追い込むこともできます。  シンコペーションとは、五七五の分け点を、たとえば、一つずつずらす。  スラーとは、一語を二句にまたがって使う。 これらは、音楽用語の流用です。  意味的に、1句相当である、と主張する。有名な「芭蕉野分けして心に風の沁む身かな」などですが、散文的になり易く、強弁になり易いので、出来れば避けたい。  文章、意味、用語を頭から先に決めてしまうのではなく、流れに乗って、 リズムに合った用語を採用することも、定型短詩創作のキーポイントですね。  字あまりが出来そうなときな処理はどうするか、というのが次ぎの問題です。字あまりの処理法に2通りあります。  発散的処理  字あまりの生じた句は、そのまま放置する。従って、字あまりは、基本リズムに対する誤差となって蓄積して行きます。五七五七七という基本リズムに対して、発散的になり、新リズムの創成を指向します。  求心的処理  基本リズムからの字あまりを、スラー、シンコペーションなどの技術で、基本リズムに納まるように処理します。従って、字あまりは打ち消され、全体として、基本リズムは、求心的に守られます。基本リズムに対して、高次のリズムを創成する方向を指向するものです。 Q 八音なら良くて、九音は悪いのか。 A 上記のように、定型詩である短歌には、多数の参加者に支持されているリズムパターンがあるのだ、と御理解下さい。これに則っている限り、短歌の仲間になれると思います。このリズムパターンから逸脱する、あるいは、理解されていないときは、新しい詩形の創造、あるいは、散文化である、と思います。 Q 音数が六、四と少ないのはどうか。 A 音数が少ないと、リズムの欠如感が大きいので、特殊の効果を狙う場合以外は避けるべきだ、と思います。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法十八 方言■  基本的に、一つの言語なのですが、地理的、階層的、あるいは、政治的に、コミュニケーションが隔絶している状態で、発音、語彙、統辞が、互いに変化して行った状態を方言(dialect)といいます。 地理的方言  地理的理由でコミュニケーションが少ないという原因で生じます。  日本は、従来、山脈、海などで、また、幕藩体制下で、コミュニケーションが制限されていたため、ご存じのような、いろいろの方言があります。非常に地理的隔絶の大きかった沖縄地方では、琉球方言という、他方言とは違いの大きい方言が生まれました。短歌の立場からは、琉球方言(琉歌がある)以外は、殆ど短歌の基本リズムに乗ります。従って、短歌の基準文体として使用することができます。  現在は、御存じのように、マスコミ、パーソナルコミュニケーションの発展によって日本国内での、コミュニケーションの機会が増えたので、地域的な方言は消失しつつあります。大方言としては、関西地方では、一般関西弁として拡がってはいますが、まだ、地域的特性が残っています。首都圏では、地域的な特性は殆どみられません。 階層的方言  地域の方言内にも、階層別の方言は存在します。 しかし、地域差が大きいときは、これは目だちません。地域内において、あるいは、地域的特性が消失したときは、階層的な方言が目だつことになります。首都圏の方言は、殆ど、これです。  いわゆる子ギャル語などを含め、パソコンマニアなどの趣味グループ、いろいろの大学の学生、特定業界、更には、PTA、各家庭、各家族に、それぞれ階層的方言があります。 階層的方言は、勿論、階層間のコミュニケーションが、相対的に少ない、ということが原因で発生します。  大ざっぱな分類では、教養方言、無教養方言に分けることができます。教養方言は目で覚えられ、無教養方言は、耳から覚えられます。  短歌の立場からすると、階層的方言は、主人公が誰であるか、どういう職業、教養、社会的立場であるかを、説明しないで表現できるので、たいへん便利に、基準文体として利用することができます。 敬語  いわゆる敬語は、方言の立場から見ると、優れて階層的です。  つまり、家族とか、デパートとか、それぞれのグループの「しつけ」に依存しているからです。どういう敬語を使うかは、家長、店長の方針によって決まりますから、敬語の一般基準というものは存在しません。  従って、いろいろな敬語を、たとえば、どちらが丁寧か、と比較することは、殆ど無意味です。  短歌の立場からは、この関係を利用して、どういうグループのどういうしつけか、ということを表現できます。これまた利用価値が高いです。 Q 方言を短歌に使うことは、品格を落とし、高雅な歌を作ることができない。 A 我々の理解できる方言である限り、それらは短歌の材料として使うことができると思います。普通の文学の基準と同じように、短歌においても、広い立場から考えるべきではないでしょうか。 Q 無教養方言、特殊な方言を使うことは、特定のグループを差別することにならないか。 A これも、広い立場から、我々の言語生活の現実を直視し、これから文学を創造するのだ、という立場が必要と思います。 Q 琉球方言では短歌はできないのか。 A 琉球方言には、琉歌八八八六があります。この方言で、短歌を作るのは、多少とも天才的努力がいるのではないか、と感じています。 Q 敬語には絶対的基準があるのではないか。 A 多くの方がそう思っておられるようですが、上記のように、敬語とは、多かれ少なかれ、特定のグループでしか使われないこと、また、時代と共に、急速にその基準が変化して行くことを考えると、絶対的な敬語の基準を設けることは不可能だと思います。むしろ、ある敬語はどういうグループが使うのか、という客観的立場から作歌に利用するほうが現実的ではないでしょうか。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法十九 あり−ゐる−をり■  存在をあらわす動詞は、歴史上、かなり変わっています。 万葉−平安−擬古文体  この期間、存在は、普通、あり を使います。動物、非動物の区別なくです。 ゐる は、現在のように存在ではなく、座っている、というような感じのより狭い意味で使われていました。従って、補助動詞ではありません。 をり は、ゐ+あり が本義で、座って存在継続している、という意味です。  継続は、連用形+あり という形が普通だったようです。擬古文で、をり を継続と理解するのは差し支えないですが、本来の意味は、上記のようです。この時代、はべり いますがり などという変種もありました。  従って、この意味でお使いになるときは、あくまで、表記の万葉−平安−擬古文体 を基準文体にすることを前提となさって下さい。現在はかなり乱れた使い方が多いようです。 中世−江戸時代  突然、上記のような用例が消滅します。この間、過渡期で、現在のような、動物、非動物による区別へ移行していったようです。従って、用例、意味は、文献毎に違うようですので、それぞれの基準文体について御参照下さい。この間、をり は、方言化していったようです。さぶらふ、候 という変種が発生しました。 明治以降標準文語文体−標準口語文体、会話文体  ご存じのように、いる(ゐる) ある は、動物非動物の対立になりました。従って、おる(をる)はほとんど方言(関西弁、鹿児島弁など)になっています。  というわけで、短歌の立場からすると、どういう基準文体の中で使うか、使われているか(あるいは誤用か)が、作歌、解釈のポイントになります。 参考文献 旺文社古語辞典、岩波広辞苑 Q 現在の短歌における、をり、ゐる の用法は誤りなのか。 A 御指摘のように、をり、ゐる の用法は、かなり変なものが多いです。基準文体の立場から、用例を調べて、良く御検討下さい。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法二十 短歌は会話■  短歌、俳句、詩の特徴を一言でいうと、 短歌は会話 俳句、川柳は標語、キャッチコピー 詩は歌謡  ですね。 ■短歌は会話  会話そのものではありません。「会話的」です。短歌を作るときの心理的アチチュードが会話的なのです。返歌などの形で、相互コミュニケーションのメディアとして、古来たいへんよく使われます。口語、俗語、方言など、会話的要素を、驚くほど自由に取り入れることができます。これは、勿論、他の詩形でもできますが、短歌が、この窮屈な定型の中に、こんなに自由自在に会話的要素を入れることができるのは、全くの驚異です。  歌謡的要素が最小です。歌会始の朗詠のように、短歌の朗詠は、音楽的要素最小の棒読みです。短歌そのものが有名な歌謡になった例としては、日本国歌「君が代」と、「君泣くや、母となりても」だけです。試みとしては、いろいろあると思いますが、ポピュラーにはなっていません。  長歌が、五七のリズムを踏みながら、新体詩などと違い、全く音楽的要素がない、ということは驚くべきことです。万葉集に、死を悼む長歌がたくさんありますが、恐らく、これらは、現在のお葬式の弔辞のように、歌われずに、読まれただけだったのでしょう。現在の五七の詩は、勿論、音楽的要素最大です。比較して下さい。  標語的要素は無くはありません。有名な、 なせばなる、なさねばならぬなにごとも、ならぬは人のなさぬなりけり。 上杉鷹山  から、神道、仏教では多くの教訓歌があります。しかし、川柳などと比べると、お説教たらたら、という感じで、ピリッと来ません。  以上のように、従って、短歌は容易に演劇を指向します。 ■俳句、川柳は標語、キャッチコピー  これは誤解を招きます。標語、キャッチコピーというのは、勿論、交通安全とか、化粧品とかへのキャッチコピーだけではなくて、もっと広く、蛙とか、蝉とか、萩とか、月とか、春雷とか、わびとか、さびとか、もっともっと広く、人生そのものへの、キャッチコピーなのだ、と、御解釈下さい。これから、俳句、川柳を創作するときの心理的態度、つまり、端的に対象を叙述し、人を引きつけよう、とする態度が出て来ます。  従って、相互コミュニケーションはできません。強いてやるときは、連句のように、短歌の形式を一部利用することになります。口語的要素を入れることは可能ですが、かならずしもキャッチコピーとしてふさわしくはありません。  音楽的要素は皆無です。俳句そのものを歌謡にした例はありません。  標語的要素。これは最大です。有名な この土手に登るべからず、警視庁。  を持ち出さずとも。  従って、俳句、川柳は容易に短册を指向します。 ■詩は歌謡  詩は歌謡そのものではありませんが、最も歌謡に近く、最も音楽的要素が大きいのです。これはいうまでもないことです。従って、相互コミュニケーションにはかならずしも向いていません。普通は、言いっぱなしです。口語的、会話的要素をとり入れることはできますが、カラオケのデュエットのように、それほど普通、というわけではありません。  音楽的要素。これは勿論最大です。しかし、良い詩だから、と言って良い歌謡になるわけではありません。良い歌謡のためには、音楽家の天才が必要です。その結果としての素晴らしい歌謡は、掃いて捨てるほどあります。  詩の定型性。これは実は音楽的要素によって規定される点が非常にに多いのです。たとえば、鉄道唱歌のように、一定の旋律パターンに七五七五..の多くの詩をはめこむことができます。逆に、自由詩、と言われるものでも、優れた旋律が与えられると、あたかも、それが一つの定型のように作用します。  標語的要素。これはけっこうあったりします。軍歌とか、党歌とか、国歌とか、コマソンとか。  従って、詩は当然ながら音楽を指向します。 ■外国詩と比較してみましょう。  詩も歌謡も、どこのことばにもある。あたり前ですね。キャッチコピーはどの国にもある。最近拝見した、胸のすくような、ロンドンの観光キャッチコピー、 ... When a man is tired of London, .... he is tired of life.  しかし、それが五七五のように定型化したのは、日本語だけだ、と思います。  会話的な定型詩。これも探すのがたいへん困難です。たとえば、漢詩のある部分。五、七言の絶句はたいへん短歌的です。贈答詩は現在でも広く行われます。私も中国の若い方から答詩を何度も頂きました。  また、たとえば、古典劇、たとえば、シェークスピアの、会話の定型詩的部分、などが該当すると思います。しかし、はっきりと独自の形態になっているのは日本語の短歌だけだ、と思います。 Q 同じ詩なのに、どうして上記のような別別の指向が生ずるのか。 A 前にも述べましたが、詩というのは、五七五というような特定の詩形ということで、抽象的に存在するのではなく、それを支持し、発展させている多くの人間のグループがいるのです。詩形の指向とは、つまるところ、それらグループの趣味、指向、および、それらの歴史的集積によって、方向づけられたもの、とお考え下さい。 Q いろいろな詩形が指向を持つことはわかったが、これらは、それぞれの詩形を過剰に限定していないか。 A 勿論、上記の議論は、それら詩形を特定の範囲に限定して考えよ、というものではありません。それらの詩形、詩を作るグループの中に内在するアチチュードの違いをご認識頂くことが、作歌上も有用と考えています。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= 短歌の技法 藤井 陽一 MAG00736@nifty.ne.jp -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法二十一 ことば遊び歌と仮名遣い■  ことば遊び歌は、文字通り、言葉の遊びをしながら、然るべき意味のある歌を作る、ということです。普通の短歌では、その意味と音律が中心であるのですが、言葉遊び歌では、それ以外に、言葉の発音、その配列、単なる多重の意味、文字の字面などのような、意味、音律以外の要素を組み合わせることによってて、読者の興味をそそり、その歌に対する意外性をあらわすものです。  実例は、古来、幾つかあり、また、これからもいろいろな形の言葉遊び歌が発生するものと思われます。 ■折句  いうまでもなく、五音の単語を五句の頭につけて詠む。下記が古今集に見える 有名な例です。 かきつばた (伊勢物語)を題にしたもの。 410唐衣きつつなれにしつましあれば はるばるきぬるたびをしぞおもふ 在原業平 ここでは、清濁は無視されることになっています。 をみなへし を題にしたもの。 439をぐら山みねたちならしなくしかの へにけん秋をしる人ぞなき 紀貫之 これを見ると、を、へ などの発音は保存されていることがわかります。 ■物名 掛け言葉 あふひ は、逢う日−葵 と掛ける。 433かく許あふひのまれになる人を いかがつらしとおもはざるべき よみ人しらず  ここで、物名と掛けことばの違いは、 物名では、歌の意味とは無関係に、物の名前の発音だけを無理矢理入れる。 掛けことばの歌とは、その二重の意味が歌のポイントになっている。従って、発音を契機として、文の意味の二重化をするところが特徴です。掛け言葉は、従って、言葉遊びというより、普通の作歌技術です。 ■廻文 前からよんでも、後ろからでも、意味がある歌。 なかきよのとおのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな  長き夜の遠のねむりの皆目醒め、波乗りぶねのおとの良き哉。 のように、仮名遣い、用語とも、当時(江戸時代?)の影響が感じられます。 ■漢字遊び歌  漢字の字画をいじる遊び歌です。分解した辺、つくりなどをそれぞれ部品として利用し、それを隣合わせにして用い、更に、全体としても提示致します。 有名な例として 嵐 を山と風に分解して考える。当時ですから、当然、縦書きなのです。今なら、縦倍角歌というところです。 249吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風をあらしといふらむ 文屋康秀  現代のパソコン通信では、原則横書きですので、横倍角歌、および、二首並べて四倍角歌、などというのが作られています。 ■仮名遣いの問題  そのとき、文字、どういう仮名遣い体系をつかうのか、という問題を生じます。  「花水木 はなみずき」という題で折句を作るとき、「はなみづき」か、「はなみずき」か、どちらを取るべきかという問題です。  発音の遊びである折句、物名などは、発音をあらわす仮名を使う。発音ですから、表音的な仮名であるのが原則です。但し、発音と言っても、基本的に当時の発音、つまり、基準文体に対応する発音です。つまり、平安時代文体に対しては、平安時代の発音、ということです。現代口語での表音的、というのとは違います。  しかし、平安時代でも、かなり、仮名と発音がずれていたということ、また、正しい仮名遣いを知らない人が居た、という点も考慮しなければなりません。  現代文について、それを実行しようとすると、やはり、新仮名遣い準拠、現代発音ということになるでしょう。  新仮名遣いの歌を作るなら、それに応じて「はなみずき」を使うべきでしょう。  逆に、古文体の歌をつくるなら、それに対応して、旧仮名遣い「はなみづき」を使うことになるでしょう。但し、普通のはなみずきは、アメリカ原産。平安時代当時は無かった、と思いますが。  もう一つの問題です。清音と濁音ですが、明治以前は、かならずしも厳格に濁点を記さなかった、特に平安時代には、濁点など無かった。従って、平安時代文体で歌をつくるときは、「はなみつき」ということになるでしょう。  また、明治以前には、旧仮名遣いと言っても、規範がなく、慣用的なものだった。また、単語も、かなりの変種があった。従って、これらを駆使することは勿論、理解するのもたいへんです。しかし自由度は非常にに広いでしょう。  ことば遊び歌は、勿論、遊びですから、いろいろな形が可能です。  どうか、各種のことば遊び歌を工夫して短歌をお楽しみ下さい。 Q はなみづき のように、仮名遣いと発音が乖離している題の折句はどちらで作れば良いのか。 A その答を前述したわけですが、あくまでも、作られるお歌の基準文体を考え、その文体における規則に従って作るのが最も望ましいと思います。 Q このような言葉遊び歌に、文学的意義があるのか。 A 文学的意義は、その歌の意味と音律によって成立しているのですから、単なる遊びは遊びに過ぎないでしょう。言葉遊びの技巧性が高まると、文学性を同時に高めることが無づかしくなります。しかし、掛けことばのように、技巧性の低い言葉遊びは、普通の短歌の技巧として、文学性を高めるために容易に利用することができます。 Q 文字の配列を何か絵のように並べた歌があるが。 A これも、一種の言葉遊びと考えることができます。勿論、内容と関連があって、文学性を高める場合もあるはずですが、普通は、単に内容に追随するものが多いようです。短歌という立場からすると、その伝達メディアは、基本的にことば、文字の配列であると考えます。従って、文字の配列の形は、短歌に添えた絵や写真と同様な、組み合わせアートとして捕らえるべきでしょう。 Q 短歌の文字に色を付ける人がいるが。 A これも前と同様に、インターネットなどの特定のメディアにおける、一種の補助手段と考えるべきだ、と思います。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法二十二 なぜ短歌を作るのか■  最近、ある方から、 「いまどき、なぜ、短歌を作るのか。」 という御質問を頂きました。これは、たいへん重大な問題ですが、こんなふうに考えて見ました。  第一に、日本語の構造は、万葉時代以後、現代まで基本的には変わっていない。 文法的構造は、全く同じです。時制、助詞のニュアンス、敬語の体系などは、変化していますが、付いて行けないほどではありません。語彙は、漢語系が増大、英語系が加わったため、かなり変化しました。しかし、これらを短歌で利用できないというわけではありません。従って、万葉時代と同じ、あるいは、それよりも豊富な言語的資源を、現在短歌は持っている、と言えます。  第二に、短歌を歌う人の心が変わっていない。 短歌は、万葉時代から現代まで、その時代のトピックを歌うものではなく、歌う人の心の在りよう、心の奥底を歌うものでした。  たとえば、現在の消費税と昔の租庸調という税のシステムは違いますが、それについて論ずる税制史を短歌がおこなうわけではありません。短歌の役目は、税金というものは、どういう影響を人間の心に与えるのか、ということを述べることです。  万葉時代の人の心は、現代人と本質的に違うのだ、という迷信を振りまいている方が多いのは残念です。万葉の歌を読んで先ず驚くことは、当時の習慣等で、現在理解できないものは非常に少ない、ということです。よくわからなくなったものに「乙女のはねかづら」などがありますが、これはほんの例外なのです。万葉の歌に歌われている心は、九十九%現代人と共通と考えてよろしいでしょう。まして、平安時代以降の歌は、心という意味では全く現代です。  第三に、短歌以外の歌謡は、現在は自由詩、俳句などいろいろな形態があります。 古代でも、やはり、短歌以外の歌謡の形がありました。記録されたものとしては、長歌、などの短歌の仲間のほかに、記紀中の歌謡、「梁塵秘抄」などがあります。  という意味で、詩の全体における短歌の立場、短歌のシェアは、万葉の時代から、本質的には変わって居ません。現在の短歌のシェアが平安時代より少なくなった、ということは否定できませんが。  というわけで、短歌を何故歌うか、という件ですが、結論として、万葉時代から現代まで、短歌を歌い継いできた人たちと同じ理由で、我々は現在において短歌を歌うのだ、ということです。 Q 現代のことばとは違う古典の時代のことばで歌をつくることに意義があるのか。 A 確かに、万葉の時代、平安の時代のことばは、現代語とは異なります。普通のままでは駄目で、ことばを勉強して理解しなければならないということが前提です。しかし、言葉が現代日本語と違うから、現代的意義が無いか、というと、それは違うでしょう。たとえば、英語のような外国語で書かれた文学は、現代の普通の日本人には理解できないから、少なくとも日本では、現代的意義が無いのか。勿論、そうではなくて、それは、英語を勉強すればよろしいのです。古典のことばも、全く同様であると考えます。 Q 現代の短歌は現代語に拠らなければならないのではないか。 A 勿論、現代のことばを使って短歌を作ることは、たいへん素晴らしいことです。おおいに現代語を活用するべきだ、と考えます。しかし、古典のことばだから現代において意義がないか、というと、それはあくまで中味の問題と考えます。 Q 現代には現代の詩形があるべきで、古典的詩形の短歌では現代的意義はないのではないか。 A 新しい詩形を開発して行くことはたいへん素晴らしいと思います。しかし、詩の基盤となる言語的特質は、万葉の時代から殆ど変わっていないことを考えると、短歌という詩形も、依然として、現代的な意義を持つものと考えます。 Q 平安時代に作られた歌のように、古い思想の歌は現代においては古くさく、現代人の思想を盛るのにふさわしくないのではないか。 A おっしゃる通り、平安時代は勿論、ほかの時代でも同じですが、その時代特有のマンネリズムが存在し、それは、現在では殆ど無意味になっています。逆にいうと、現代も、現代特有のマンネリズムを生産しています。これらのマンネリズムは、後代の人には、全く無意味、と考えられるかもしれません。現代芸術とは、現代マンネリズムの生産であると考えるなら、それは結局ことば遊びのレベルになってしまうでしょう。  文学とは、芸術とは、勿論、それらのマンネリズム生産にあるのではありません。その背後にある、人間の心の働きを表現するものと考えます。ですから、平安時代、ほかの時代でも、その時代のマンネリズムを取り去ったものが真の短歌の姿であり、現代においても意義を失わないものであると思います。 Q それでは短歌は結局進歩しないのではないか。 A 時代のマンネリズムに単に追随するということは、勿論、進歩ではありませんね。短歌における、文学における真の進歩とは、それが表現する人間自身の心の動きが、如何に進歩するか、ということです。これは、全く、人間自身の心の進歩、社会の実質的進歩に依存しているものと考えます。 Q 現代でも短歌は作られなければならないのか。 A どの時代でも、どういう詩形を選ぶかは、創作者の自由な発意によるものであることは当然です。現在、短歌は、豊富な蓄積と衰えるところのない可能性を持つ詩形であると考えます。従って、現在においても、将来もなお、おおいに活用して頂きたい、と思っています。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法二十三 返歌のいろいろ■  返歌は、いろいろな状況で生まれます。今、簡単のために A このお歌の作者、 B 元歌の作者、C 第三者、 N 不特定多数読者  ↓ 作者の期待する読者 / 先行の歌として、作者Aに影響を与えた。  という記号を使わせて頂きますと、次ぎの表のようないろいろな形態の返歌が存在します。 表 返歌の種類 記号       説明     A↓N  純粋の独詠、一般読者を対象としたお歌 B↓A      返歌の元歌、特定の読者を対象としたお歌     A↓B  片思い型独詠、特定の読者を対象としたお歌 B↓A/A↓B  相聞型の返歌 B↓A/A↓N  伊勢型返歌 B↓N/A↓N  パネル討論型、本歌取り型、批評型返歌 B↓A/A↓C  伝言型、すれ違い型返歌 B↓C/A↓B  野守型、間接的表現 B↓C/A↓C  郵便ポスト型、中継的表現 B↓N/A↓B  ファンレター型返歌 A↓N/A↓N  連作 ■B↓A/A↓Bは、純粋の相聞返歌パターンです。標準的で、例はたくさんあります。最も痛烈なのが、下記の例ではないでしょうか。 古今恋二 556つつめども袖にたまらぬ白玉は 人をみぬめのなみだなりけり 阿倍清行朝臣 557おろかなる涙ぞそでに玉はなす 我はせきあへず たぎつせなれば 小野小町 ■B↓A/A↓N は、伊勢型返歌と言えるでしょう。これは伊勢物語に多く見られるパターンです。次ぎの隅田川のお歌のように、伊勢物語のお歌は、/A↓Nというパターンが多くみられます。 伊勢物語84段 老いぬればさらぬ別れのありといへばいよいよ見まくほしき君かな 老母 世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もといのる人の子のため 在原業平  この例では、B↓A/の影響下、つまり老母から業平へ呼びかける歌に対して、/A↓B、すなわち、業平が老母に返した歌、とも解釈できます。しかし、より正確には、伊勢物語に多い/A↓N、つまり、元歌も含めてある環境の下で、主人公の歌を説明する、という歌物語のパターンと考えることができます。 ■B↓C/A↓B は、野守型、間接的表現といえるでしょう。 万葉集巻一 20あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 額田王 21紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも 天武天皇  額田王は、可愛らしく第三者の野守さんに言っているのですが、天武天皇は、直接的に額田王に話しかけています。 ■このように、返歌とは、更に広く、B↓/A↓つまり、ある歌の影響下において歌を作る、という風にとらえるべきであると考えています。  返歌とは、一般読者を対象とする↓Nではなくて、特定読者対象↓Bであることがポイントであると考えると、元歌が不明で、つまり、B↓A/不明である片思いのような恋歌も、返歌だということになってしまい、ちょっと無理な説明になります。短歌というものは、本質的に一首一首独立したものですし、返歌と言えども、元歌が不明ならば、元歌無しの単独の歌として、それなりの理解ができます。  そもそも、作者Aが、元歌Bをお示しにならない限り、実際は、返歌なのかどうかは、本歌取りのように周知の事柄を対象とする場合を除いて、一般読者Nにはわからないのが普通です。従って、影響関係/が判っている、ということが返歌と呼ぶことの重要なポイントであると考えます。返歌とは、他歌の影響/の存在が本質的、つまり、複数のお歌の間の関係を記述するものであって、ある一つのお歌の内部的指向の問題、すなわち、誰を読者として指向するかという、↓の問題ではない、と考えています。 Q 返歌とは、AB間の歌の贈答、という風に狭く考えるべきではないのか。 A 勿論、そのように定義することも可能ですが、実際は、上述のように、伊勢型、野守型のように一見贈答のようで実はそうでない可能性のあるペアが、従来も返歌として考えられています。これを含んで、より実際的な広い定義にしよう、という趣旨です。 Q 返歌とは、実際に贈答されることが必要か。 A これも上述のように、実際に贈答された歌のペアのほかに、実際に贈答はされなかったが、歌の上では贈答されたように配列されたペアがあります。これをはっきり含むようにしよう、というのが趣旨です。 Q 多くの歌が何等かの他歌の影響を持っている。そうすると、殆どの歌が返歌ペアということにならないか。 A 確かに、元歌、返歌とペアを並べたときに、その返歌としての性質を論ずることができます。 Q 返歌相手を指定することは可能か。 A 返歌の意味によって、推測することができます。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法二十四 休止符■  短歌のリズムのお話しです。  短歌は、謡曲(歌謡曲も)で聞かれるように、基本的に、四拍子のリズムの繰り返しです。それで、短歌は、五七五七七ではなくて、実際は休止符を入れて、六八六八八なのだ、ということを申し上げました。それでは、その休止符は何処に入っているか、という件ですが、実際の短歌で見ると、音律と意味の関係から、いろいろなところに入っているのがわかります。たとえば、有名な下記のお歌について調べましょう。お歌をゆっくりと読んでみて下さい。 久方の光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ 紀友則 ひさかた」の・XX」 ・ひかり」のどけき」 はるのひ」に・XX」 しづここ」ろなく・」 ・はなの」ちるらむ」  というような感じです。 ・印は、休止符、Xは、短歌というパターンからの絶対休止符です。 」は小節の区切りです。  同じように、 花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせし間に 小野小町 はなのい」ろはXX」 うつりに」けりな・」 いたづら」に・XX」 ・わがみ」よにふる」 ・ながめ」せしまに」  これからいろいろなことがわかるでしょう。たとえば、 ■Xという絶対休止のところに入ることは殆どない。短歌というパターンが崩れるからです。 ■意味から、七=三+四と分かれるところでは、三のところは最初に休止が入る。 ■七=二+五のところは、つながって、最後に休止が来る。 ■五のところは、最後が一拍の助詞などで終わる場合が多い。  などなどです。上記の例歌は古今の時代のものですが、しかし、全時代にわたって、これが短歌の音律パターンの基本になっています。 Q 短歌を黙読する場合にも、上記のリズムは存在するのか。 A 読者は、黙読する場合でも、無意識の内に、上記のリズムを感じとっています。これが、韻文と散文との基本的な相違点です。 Q リズムのパターンは上記のようなもののみなのか。 A 上記は典型的な例で、実際には、いろいろな形があります。また作者の独創性によって、これからも新しいパターンが生まれる可能性があります。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法二十五 カメラ■  短歌は、現実を写すカメラではありません。心と心を繋ぐ絆だと思います。 Q 短歌とは写実ではないのか。 A 単なる写実では短歌は成り立ちません。カメラでさえ、シャッター、露出など、撮影者の主観的判断がたくさん入っています。人間の話すことばをもって構成される短歌には作者の主観的要素がキーポイントであることは当然と思います。 Q 写実は否定されるべきなのか。 A 写実は、短歌が単なるマンネリズム、言葉あそびに堕することを戒めるという意味があります。必要な要素ではありますが、それだけでは不十分です。 Q 作者は写実をどう考えるべきか。 A 作者をとりまく現実を、作者がどう捉え、どう処理しようとしているのか、という心の働きが、短歌の本質であると思います。 Q 現実に感動を得た、ということが短歌の基本ではないのか。 A 単に、感動的な現実を写すのみでは、ばかちょんカメラと変わるところがありません。写真にも、短歌にも、「犬が跳ねた。」のような、表面的珍現象に対する見かけの感動を写したものが多いのはたいへん残念です。これでは、作者が単に「犬が跳ねた。」ことを表面的に面白がっているだけ、という、作者の浅薄で冷淡な心を表現することになります。写真でも、短歌でも、「何故、犬が跳ねたか。」「作者は犬が跳ねたことをどう思うのか。」などと、深く考えて行くことが表現の基本でなければならないと思います。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= 短歌の技法 藤井 陽一 MAG00736@nifty.ne.jp -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法二十六 連体終止のいろいろ■  文章では、終止形、終助詞で終わるのが普通です。勿論、命令形で終わる場合もあります。しかし、これに対して、普通の文章でも勿論そうですが、短歌では、連体形、あるいは、体言を修飾する形で終わる場合が幾つかあります。これは、短歌の場合、係結と関連し、また、慣習的に連体形終止にする場合がありますので、これらの意義を、それぞれの文体に対応して認識して置く必要があります。 一.被修飾語の省略  最後の被修飾語を省略します。  それまでにいろいろと説明してきて、最後の、こと もの 人 心 など、自明になった体言はなくても意味が十分に通じ、また簡潔になるために省略します。勿論、それ以前の文において、充分に説明して、被修飾語が無くても判るようにすることが条件です。  この用法は、口語、文語、どのような文体にも適用可能です。しかし、省略される被修飾語が自明になっていることがポイントです。 二.倒置  被修飾語が、頭に来て、それを修飾する部分が最後になるように、倒置します。被修飾語を特に取り出して強調したいときの技法です。倒置である、ということがわかるように、意味の流れを調整することが条件です。  口語、文語、どのような文体にも適用可能です。倒置によって、単に強調だけでなく、多少、下の係結のような情念的要素が入っているのがポイントです。 三.係結  いわゆる連体形に対する係結です。古典的に、ぞ なむ や か が先行するときは 連体形で終止します。意味は、疑問、強調などです。  この係結は、平安朝時代まで、および、擬古文では、比較的厳格に守られています。従って、上記に則った基準文体を利用する短歌の場合、充分に注意する必要があります。  これらは、実際にはない、疑問とされる事物、あるいは、多少の誇張の気持ちを持った強調ですので、現実をそのまま叙述する直叙とは異なり、いわゆる反実的表現法の一つです。つまり、なにかがある、という事実を述べるのではなく、それに反することを表現するのです。従って、単なる、疑問、強調ではなく、これに、情念的要素、接続法的な反実記述的要素が入っていることがポイントです。 四.係結類似  上記係結を要求する助詞がない場合でも、それに準ずる意味の助詞、あるいは内容的に、それと類似の情念的、接続法的記述が前提として存在する場合、連体終止になることがあります。  など なぜ などという副詞は、などか などという形で、 か と結びついて用いられるので、よく連体終止になることがあります。  これは、平安朝というよりも、その末期以降の擬古的な文体で、使われることがあります。しかし、崩れた印象を与えるので、そのような基準文体を前提とすべきです。  この用法は、上記のように、係結の場合よりも強い情念的要素があって、それを記述するために、連体終止の形を用いる、というのがポイントです。 五.中世連体終止  上記が拡大変形して、中世口語文では、連体形が終止形として普通に使われるようになりました。現在の口語の終止形のはじまりです。  これは、中世の、狂言のような文体を前提としています。中世口語文体というのがポイントです。 Q 係結は厳格に守らなければならないのか。 A 上述のように、係結は、平安朝文体、擬古文体においては、かなり厳格に守られています。従って、これらの文体を基準文体とする短歌では、やはり厳格に守るべきだ、と思います。 Q 係結は現代短歌においても守るべきか。 A 現代短歌がどのような文体を使うか、によって決まると思います。現代の口語文は勿論、文語文体においても、係結の基礎となる反実的ニュアンスが、連体形からは消えてしまいました。従って、係結を使うことはナンセンスになっています。 Q 反実とは何か。 A いろいろな文では、現実を起こったことを伝える直叙文と、現実ではなく、それに疑問を感じている、あるいは、現実にないことを言いたい、現実であるが、少し誇張していいたい、あるいは、単なる仮定として述べたい、という場合があります。これらが反実表現の仲間です。 Q 反実は何故係結なのか。 A 現代の口語文では、勿論、反実的表現をすることができますが、これは、連体形のような文法的手段ではなくて、副詞や、全体の意味の流れで表現するようになりました。しかし、平安時代までは、連体形がそのような反実的意味を持っていたようです。その結果、連体形と特定の助詞との関連、すなわち係結が出来たものと思われます。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法二十七 縁語と折句■  縁語とは、 糸によるものならなくに、別れ路の心細くも思ほゆるかな。 古今  のように、関係のある単語の同音性を使うものです。  縁語を用いた短歌は、その主題と、縁語によって生まれる別の主題が、同時に進行していきます。この二つが絶妙な和音を奏でると美しい効果を発揮します。  折句とは、 【かきつばた】からころもきつつなれにしつましあれば、はるばるきぬるたびをしぞ思ふ。 伊勢物語  のように、各句の頭字を連ねていって意味のある単語にすることです。  折句短歌ををつくるのは、比較的簡単です。お題の字を頭に持つ単語を、古語辞典で調べて、意味が通るように並べれば出来ます。  但し、古語にも、いろいろ時代によって用語が違いますので、設定した基準文体で使用可能なものをお撰び下さい。 Q 縁語を使った短歌に積極的意義はあるのか。 A 縁語の意義は、同じことばの流れの中に、二つ以上のイメージを現出させることができるという点にあると思います。俳句的には、むしろ関係が殆どないことばを二つ以上提出して、その間のコンフリクトに意義を持たそう、ということがああります。縁語は、これとは反対に、意味の連関の同時性に意義を見い出すことになります。 Q 折句には、積極的意義があるのか。 A 折句のほうは、むしろ遊戯的要素が強いと思います。歌としての価値は、折句の見事さにもよりますが、本質的には、歌自身によります。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法二十八 ことばをして言わしめる■  写真展を見て参りました。  その結論ですが、写真とは、ばかちょんカメラでも、じじかめでも、高級一眼レフでも、ただシャッターを押すだけでは駄目なのだ。そして、撮影者の主張がもろに出てもいけないのだ。ということですね。  写真に写された被写体が、写真の中のイメージたちが、それぞれ、なにかを言わなければならないのです。つまり、写真の中のイメージをして何かを言わしめるということが必要です。  短歌でも同じですね。 ただ現実を写すだけでは駄目なのだ。自分の言いたいことを言うだけでもいけないのだ。短歌のことばがものをいうようでなければならないのだ。  というわけです。短歌に書き込まれた言葉たちが、それぞれ、なにかを言わなければならないのです。つまり、短歌の中の言葉をして何かを言わしめるということが必要だと思います。 Q どうやって言葉に言わせればよいのか。 A これは、たいへんむづかしいところです。結局、ことばの持っている意味、ことば同士の連関、ことばの使われる文体、更に本質的には、ことばの存在している背景について熟慮して活用することではないでしょうか。 Q 作者の意図もなしにことばを羅列することは無責任ではないのか。 A 勿論、作者の意図なしに、何も創作することはできないわけです。しかし、どの芸術でも同じことですが、読者の周りに常に作者が張り付いて作品の解説をすることはできない、ということにご留意下さい。読者に説明をするのは、結局、作者自身ではなくて、作品のことばたちなのです。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法二十九 二十首以上■  短歌を一首作るには、二十首以上のお歌を読みましょう。 Q 他人の作品を読む暇があるなら、自分の短歌を詠むべきだ。 A 作歌は、自分の作品を作るのが目的ですが、ほかの作品に基づかない作品は、根のない切り花のようなもので、形は一見美しいのですが、すぐ萎れてしまうでしょう。  他人の作品を読むことは、そこから、無限の栄養を取ることができるのです。 Q 二十首、という数字に意味があるのか。 A この数字には、勿論、特定の意味はありませんが、私自身の経験から、大体この位か、と思います。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法三十 理系・文系■  以前、女性歌人にも、文系だけでなく、理系の歌人が多いのだ、ということを申し上げました。  理系、文系というのはどういう観点から分けているのか、ということですが、この場合、以下のような基準に基づいています。   理系とは、作歌の上で、より理性的であること。対象を客観的に判断し、良く解析的であること。二次元的、三次元的な空間感覚を有すること。また、ことばの用法についても客観性を重んじること。  これに対して、文系とは、作歌上で、より主観的であること。対象を総合的に判断し、感覚的に処理すること。空間感覚は一次元的であること。ことばの用法も、主観に傾き易いこと。  これは、ご本人が、理系学部、あるいは文系学部というご出身とも関係がなく、また、現在のご職業とも関係がないようです。一般的に思われているのとは反対に、男女、という区別も、決定的ではないようです。  よく言われるように、理系の分野で使われる用語、概念、事象を取り上げるから、と言って理系というわけではありません。  女性歌人で、意外に、理系的と思われる例、として、与謝野晶子、小野小町、紫式部などの例をあげました。これは、それぞれのお歌から、上記の理系特徴を認めることができるからです。  逆に、男性だからと言って、理系が多いわけでもないようです。たとえば、斎藤茂吉は、精神科医という職業から理系と思われるかもしれませんが、お歌を拝読し、その経歴を見ると、かならずしも理系的ではないことがわかります。  理学部物理卒の、石原純は、最も理系のように思われるかもしれませんが、実際は、非常に文系的です。  現在の女流歌人にも、理系学部ご出身の方がおられ、たとえば、栗木京子さんが、「理科系、文科系って?」(朝日新聞夕刊七月二十六日)に書いておられますが、計算が上手だから理系というわけでもない、源氏物語が好きだから文系というわけでもない、と。  生物化学研究者でもある永田和宏氏が、蛍の発光物質ルシフェリンという単語を使うから、理系は嫌われる、というお歌を作られた、と。  確かに、単純な計算作業は、解析的でもないし、また、源氏物語は理系的要素があるのですから、常識的な区別は破綻するでしょう。栗木さんは理学部卒ということですが、お歌は、かならずしも理系という印象を受けません。  また、読者もかならずしも文系指向の人ばかりではないのですから、理系単語を嫌う人がおられるのと同様に、過剰な文系表現を嫌う人もおられるわけです。  読者については、メディア側では、文系的ときめて掛かっているように思います。作者についてもそういう決めつけをしているようです。  短歌という文芸分野は、より広い可能性を持つものです。理系文系という問題についても、作者側、メディア、読者側でも思いこみをなくし、多様な理解と発展を目指すことが必要だと思います。 Q 文学は、一般に、文系的発想が基本ではないのか。 A 確かに、文系的要素は重要ですが、それだけが文学ではなく、理系的要素も含めて広い立場に立脚する必要があると思います。 Q 理系的用語、発想は、理解されないのではないか。 A 読者には、文系的にのみ理解する方もおられますが、それだけを対象とすることは、自らマーケットを閉ざすことになります。理系的読者も含め、多様な理解を対象として文学を考えて行くべきであるためます。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=  常識的に、文系と言われる女流歌人の中にも、結構、「理系女流歌人」が多い。 その理由は下記です。 ☆理系歌人 8熟田津に船乗りせむと月待てば、潮もかなひぬ。今は漕ぎ出でな。 額田王  潮もかなひぬ 叙事を超えた科学性と、漕ぎ出でな という積極性。 20あかねさす紫野行き標野行き、野守は見ずや、君が袖振る。 額田王  相聞の圧巻。色彩感と、野守という第三者を引き出す空間的感覚。 652玉主に玉は授けて、かつがつも、枕とわれはいざ二人寝む。 大伴坂上郎女 玉 家庭内方言 =坂上大嬢(坂上二嬢)娘を嫁がせた母親の気持ちです。 660汝をと吾を人そ離くなる。いで吾君、人の中言聞きこすなゆめ。 大伴坂上郎女 中言 中言 なかごと 中傷  強い意志と、論理的記述。 16思ひつつ寝ればや人の見えつらん、夢と知りせば覚めざらましを。 小野小町  客観的、論理的な叙述。それを説明する歌が次ぎにある。 68ちはやふる神も見まさば立騒ぎ、天の戸川の樋口開けたまへ。 小野小町  論理的。当時の気象科学的叙述。 93日に千たび心は谷に投げ果てて、有にもあらず過る我が身は。 式子内親王  恋ではない。恐らく、不動産問題、人事問題、汚職問題。 318玉の緒よ、絶えなばたえね。ながらへば忍ぶることの弱りもぞする。 式子内親王  新古今集 ..などの欝屈も重なっておられたものと推察致します。 11.3清水へ祇園をよぎる桜月夜、こよひ逢ふ人みなうつくしき。 鳳晶子  清水へ祇園..という空間的指摘が下句の空間喪失へ導くリズム感 23.3ほととぎす、嵯峨へは一里、京へ三里、水の清滝夜の明けやすき。 鳳晶子  正確な方向感が彼女の特徴。頭がいい証拠です。 27.4このいのち終る日のこと想ほへば、産むとふことも罪やもしれぬ。 河野裕子  罪やもしれぬ これは反語と理解されます。客観的描写。 91.1獣園は九月の雨にけむりゐて。キリンは蒼く高く佇ちゐき。 河野裕子  キリンは蒼く ポイントです。雨のときは確かにそんな感じ。客観的叙述。 ★文系歌人  たくさんいらっしゃいますが、典型的な例をお一人だけ。 125.1「この味がいいね」と君が言ったから、七月六日はサラダ記念日。 俵万智  祝日を勝手に制定するというところがポイントです。 37.3「今日で君と出会ってちょうど五00日」男囁く。わっと飛びのく。 俵万智  わっと飛びのく たいへんリアルです。たいへん感覚的。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■理系短歌・文系短歌■ 藤井 陽一 MAG00736@nifty.ne.jp  常識的に、短歌は文系と思われているようです。とくに、女流歌人というと、典型的な文系と思われるのではないでしょうか。しかし、女流歌人の中にも、結構、「理系女流歌人」が多いのではないか、と思います。  理系、という理由は、先ず、空間的知覚。それと科学的関心。心理の客観的叙述。論理的記述がしっかりしていることです。  理系女流歌人の例。番号は原著番号あるいはページ.行。 8熟田津に船乗りせむと月待てば、潮もかなひぬ。今は漕ぎ出でな。 額田王(万葉)  潮もかなひぬという叙事を超えた科学性と、漕ぎ出でな という積極性。 20あかねさす紫野行き標野行き、野守は見ずや、君が袖振る。 額田王(万葉)  相聞の圧巻。方向感、色彩感と、野守という第三者を引き出す空間的感覚。 652玉主に玉は授けて、かつがつも、枕とわれはいざ二人寝む。 大伴坂上郎女(万葉)  娘、坂上大嬢(二嬢)を嫁がせた母親の気持ちの客観的叙述です。 660汝をと吾を人そ離くなる。いで吾君、人の中言聞きこすなゆめ。 大伴坂上郎女(万葉)  中言は中傷。強い意志と、論理的記述。 16思ひつつ寝ればや人の見えつらん、夢と知りせば覚めざらましを。 小野小町(集)  空想的なテーマなのに、客観的、論理的な叙述。それを説明する歌が次ぎにある。 68ちはやふる神も見まさば立騒ぎ、天の戸川の樋口開けたまへ。 小野小町(集)  論理的。当時ではあるが気象科学的叙述。源実朝の同類歌とよい対照。 14はらへどの神のかざりのみてぐらに、うたてもまがふ耳はさみかな。 紫式部(集)  客観的記述、徹底的批判。 55数ならぬ心に身をばまかせねど、身にしたがふは心なりけり。 紫式部(集)  深層の客観的叙述。確実に真理に迫っている。 93日に千たび心は谷に投げ果てて、有にもあらず過る我が身は。 式子内親王(集)  恋ではなく、不動産問題、人事問題なのだろうか。心理の客観的叙述。 318玉の緒よ、絶えなばたえね。ながらへば忍ぶることの弱りもぞする。 式子内親王(集)  これも恋ではなく、上述のような背景。自己の心理を客観的に叙述している。 11.3清水へ祇園をよぎる桜月夜、こよひ逢ふ人みなうつくしき。 鳳晶子(みだれ髪)  清水へ祇園、という現実空間的指摘が下句の空間喪失へ導くリズム感。 23.3ほととぎす、嵯峨へは一里、京へ三里、水の清滝夜の明けやすき。 鳳晶子(みだれ髪)  正確な方向感覚。こういう場面で、方向感覚が出てくるのは驚異。 27.4このいのち終る日のこと想ほへば、産むとふことも罪やもしれぬ。 河野裕子(ひるがお) 罪やもしれぬ これは反語と理解されます。客観的描写。 91.1獣園は九月の雨にけむりゐて、キリンは蒼く高く佇ちゐき。 河野裕子(ひるがお)  キリンは蒼く、がポイントです。雨のときは確かにそんな感じ。客観的叙述。  文系女流歌人はたくさんいらっしゃいますが、典型的な例をお一人だけ。 125.1「この味がいいね」と君が言ったから、七月六日はサラダ記念日。 俵万智(サラダ記念日)  記念日を勝手に制定するという非客観性がポイント。 37.3「今日で君と出会ってちょうど五百日。」男囁く。わっと飛びのく。 俵万智(サラダ記念日)  わっと飛びのく、という、とてもリアルで感覚的表現。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= 理系 文系 客観 主観 解析 総合 理性 感覚 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= 短歌の技法 藤井 陽一 MAG00736@nifty.ne.jp -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法三十一 未然形連用形已然形■  文語文体、とくに、平安朝文体では、未然形、連用形、已然形が、単なる活用形ではなく、それぞれが時制上の意味を持っていました。例として、 葉色褪せゆかむ、秋深まりぬ。  では、一般に、未然形への「む」は推量というより、単純未来を表します。従って、 昔→秋深→今→色褪→未来  という意味とお考え下さい。 葉色褪せゆけば、秋深まりぬ。  では、已然形は、名前の通り、既に起こってしまったことを表します。従って、 昔→色褪→秋深→今→未来  という意味とお考え下さい。 葉色褪せゆきて、秋深まりぬ。  では、て、も連用形+完了ですから、直接影響しているということを表します。 昔→色褪:秋深→今→未来  という意味とお考え下さい。  どれをお採りになるかは御自由ですが、あくまで作者の意図によります。正しく、作者の意図が説明されることが大切です。 Q 活用形によって時間の前後がわかるかもしれないが、紅葉とかの用語によってもわかるのではないか。 A 勿論、用語によって、季節感を整えることは、たいへん大切です。しかし、用語と、文法が、時間的に矛盾しないようにすることも大切です。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法三十二 ポイント■  普通のことばもそうですが、短歌のような定型詩では、字数が限られているために言いたいことを絞って行く、つまり、ポイントを押さえるということが必要です。  ポイントの数は、短歌が五句から出来ているということから、五つ程度、更に、主なポイントは、二つに絞られるといいお歌ができると思います。  主要なポイントを、二つお撰びになり、後のことばはそれらを説明するようにするとよいと思います。但し、固有名詞は、読者に対する情報が多いので、何時もそれ自身がポイントになります。そうすると、使えるポイントが一つ減ってしまいます。このことにも御注意下さい。 Q ポイントは、どうしてわかるのか。 A 先ず、作者が、単に言葉の羅列ではなく、何を中心として訴えたいか、を決めます。そして、それに合うように、強いことば、弱い意味のことばを配列して行き、訴えたい点が明確に浮き出るように致します。読者は、お歌の中から、明確に浮き出る点を読み取り、それをポイントと考えることになります。  作者のことばの配列が、目的にあっていないと、明確に浮き出る点が、実は作者が主張したい点ではない、ということも起こり得ます。 Q ポイントは、一つではなければならないか。 A 特徴のある言い回し、綺麗なことばが並んでいると、表面的には綺麗に見えますが、結局何がポイントになるのか判らなくなります。こういう状態を、マルチポイントといいます。 Q 表面的に綺麗、で良いのではないか。 A 綺麗な表面はたいへん結構ですが、表面を飾るよりも、読者の心に直接訴えるようにしたほうがよろしいと思います。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法三十三 叙景と感慨■  叙景と感慨の表現の問題ですが、短歌に限らず、一般に、三つの方法があります。  できるだけ、客観的に、叙景を記述すること。単に、バカチョンカメラではなくて、それが真実をあらわしていれば、これだけで十分感慨を伝えることができるでしょう。  感慨をあらわす語句を使うこと。かな、のような、感慨をあらわす語句、直喩、暗喩という比喩、異様な語を使うなどの方法です。これは使いさえすればよい、というわけではなく、脅かしだと思われると逆効果になることもあります。  人事を入れる。これは、感慨をあらわす奥の手、決定版、というところです。誰でも、人間のことについては、感慨を持たざるを得ないからです。 Q 単純な叙景は何故いけないか。 A 写真で、「誰でも撮れる写真じゃないか」という悪口があります。お歌の場合でも、全く同じ悪口が成り立つようです。  旅行先などで風景写真を撮るように、見た風景をただその侭お歌にすることが多くありますが、読者としては、単なる旅行記念アルバムを見せられている、という感じとなり、愉しくはありますが、心は動かされないことが多いです。  叙景である場合でも、作者が、どのようにその風景を感じたのか、どのように表現したのか、というところで、作者の心を伝えることができると、読者に感動と理解を与えることができると思います。 Q 何故叙景に人事を入れるのか。 A 人事は、その登場人物に固有の出来事を歌うことになります。従って、同じ富士山でも、誰の背景になるか、によって、誰でも撮れる写真ではなくなります。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法三十四 文学の共時性■  科学、とくに、自然科学と文学とを比べてみます。  自然科学では、古い思想、理論、世界のいろいろな研究者の実験が比較検討され、正しいものが残って行きます。  文学では、昔の文学、世界の各地の文学が我々の前に同時に提示されています。科学と違い、昔の文学を新しい文学で置き換えることはできません。古いからといって自動的に間違いではなく、新しいからといって自動的に良いわけではありません。  世界にはいろいろな言語の文学がありますが、私が英語がわからないから、といって、英文学に価値がないわけではないのです。  こういう、すべての文学が、常に同時に存在している、という状態を、文学の共時性、と呼びたいと思います。  勿論、短歌でも事情は同じです。 Q 世の中が時間と共に進歩するように、文学も進歩するのではないか。 A 文学は人間を記述するものである限り、人間が進歩して、新しいビルを作るようになったとしても、人間を記述する、という意味で、文学という意味では本質的に変わらない、と思います。 Q 時間の異なる、たとえば、昔の文学は、現在の我々と時間を共有していない。従って、文学としては質的に異なるのではないか。 A 時間を共有しない、という意味では確かにその通りですが、文学を創作し、それを読んで理解する、という過程は、常に一方向です。そういう意味で、文学には、集団作業のような、相互作用性はないのです。そういう意味で、現代文学であろうと、平安時代の文学であろうと、作者から読者へ、という方向性で文学が成立しています。そういう意味で、文学は、それを理解する読者にとっては、共時的に存在すると思います。 Q 時代が異なると、文学を構成する基本要素である生活感情が異なり、同質のものとして考えることはできないのではないか。 A 作者と読者は、基本的に異なる人格で、生活感情なども異なっています。現代であるか、平安時代であるか、は、本質的問題、というより、程度の差である、と思います。 Q 古典文学の作者に対しては、たとえば、我々が批評を送って、次作の参考にして貰うことができないから、質的に現代文学と異なるのではないか。 A 確かに、紫式部にファンレターを送ることはできませんが、文学というものは、作者が何に影響されて書いたか、ということではなくて、あくまで、何を書いたか、ということである、と思います。作者と相互作用するのはたいへん結構ですが、その結果生まれた産物が、文学である、と思います。 Q 集団的相互作用は文学ではないのか。 A 集団的相互作用は、勿論たいへん結構だ、と思いますが、これは、文学とは別の次元に属する活動であると思います。文学とは、上記のように、作者から読者へという心の流れが基本でなければならないと思います。勿論、ほかの芸術分野でも同じことが言えると思います。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法三十五 文学のマンネリズム■  何事にも、表面と中味があります。文学、短歌も同じです。  秋、稔りつつある林檎も同じで、季節の変化に従い、緑から黄色、赤へと色を変えて行きます。これには、環境の変化、つまり、気温の変化、日照時間の変化、自分自身の材料の要素、つまり、カロチンのような発色色素の化学変化がその要素になっています。同じ芸術でも、建築の場合は、この変化が非常に明確で、社会環境の変化、建築材料の進歩によって、建物は、一目で、その建築年代がわかるほどです。  そういう、その時代において最も普通な方法、外面的な表現方法を、マンネリズムと呼びたい、と思います。  建築は、外観も重要ですが、ユーザとしては、その建物の中で生活するということが本質的に重要です。林檎の場合、その表面を鑑賞したり、それを静物画に描くという立場もありますが、やはり、食べて見なければ、それを味わうことはできないでしょう。舌や胃袋にとっては、林檎の形、色は関係ないからです。  中味が存在し得るのは、それを包む表面があるからです。しかし、表面のために中味が存在するのではありません。  文学、短歌でも、同様です。 Q 見栄えの悪い林檎は売れないではないか。 A まったくおっしゃる通りで、困ったものです。 Q 売れない林檎を作ってもしょうがない、のではないか。 A これがプロとアーティストの違う点ですね。モーツァルトが大金持ちだったか、をお考え頂きますればよろしいと思います。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法三十六 反実強調し■  普通、強調の助詞、と言われている し は、実は、単純な強調ではなくて、次ぎのように、反実という特殊な意味をもっています。この項は、主に、左記の解説を参照しています。番号は万葉の歌番です。 ■反実的仮定を表す。たとえば 506事しあらば、火にも水にもわれ無けなくに  では、現在は平穏だが、万一事が起きたら、という実際には無い仮定を表しています。下記のように、し の有無によってどう意味が変わるかを考えると、  妻しあらば、は、妻が居ないから、という現実に反する仮定。たとえば、妻を置いて単身赴任している。着つつ馴れにし妻しあらば、という歌がありました。  妻あらば、は、妻が居るとすればという単なる仮定。たとえば、まだ独身である。妻を娶らば、という歌がありました。 というニュアンスになります。 ■反実的希望などを表す。たとえば、 4165大夫は名をし立つべし  では、大夫は、まだ無名である、という現実に対して、頑張って有名になろう、という希望を表しています。 ■反実的心情を表す。たとえば、 64寒き夕べは大和し思ほゆ  のように、現在は、大和には居ないので、大和のことが心情的に思われる、という現実を否定したい自発的感情を表しています。 ■反実的感情を表す。たとえば 3143言問はましを今し悔しも  のように、聞いて居なかった、という否定を悔しいと表現しています。  これらには、勿論、幾らかの不明の例、例外はあるようですが、大体において、これらの、し、の用法は、まとめて、反実強調、と言えるのではないか、と思います。  これらの用法は、万葉文体、平安朝時代の基準文体に適用されます。それ以後の文体では、この、し、が使われることが少なくなり、従って、意味が不明になって、単なる字数合わせとしか思えない例が出てきます。 Q 反実強調し、は、現代語では、どのように対応しているか。 A 反実強調し、は、現代語では、直接対応する語はありません。とすれば、などという表現で表されます。現代語では、一般に、反実的意味は、助詞ではなく、動詞の表現や、強調する場合は、副詞などによって表されることが原則になっています。  従って、反実か、直叙か、は、文の形からは区別出来ず、同じに見えます。 高木市之助、五味智英、大野晋;日本古典文学大系 万葉集四 補注;p502−504;岩波書店;昭和40年 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法三十七 反実表現■  我々が、何かを述べようとするとき、 現在、実際に存在することを主張したい場合と、 希望、仮定条件などで、実際に存在しないことを主張したい場合があります。  前者の直叙型表現に対して、後者を反実型表現ということにしたいと思います。  反実表現は、言語のいろいろなところに存在します。また、それぞれの言語において特徴的なある形で存在します。  反実表現は、たとえば、印欧系言語のフランス語では、条件法、接続法という動詞の変化で表されますが、英語では、これらは消滅して、it were という例外以外は、殆ど副詞や動詞の意味の中に拡散して表現されています。  日本語でも、平安朝以前は、未然形、已然形という動詞の活用、し、ぞ、か などの特定の助詞が、反実表現を担っていましたが、現代の口語では、これらは消滅して、いろいろな副詞や全体の文意の中へ拡散しています。 Q 反実と言っても、それが表現する具体的内容は同じではないのか。 A 確かに、現実に存在しても、現実に存在しなくても、ある事象を抽象的に考え、それを文に表現することができます。現代の日本語、英語などでは、その傾向が強くなっていて、表現される内容は、まるで、数学の式のように抽象的であり、この内容が、実際であるか、仮定であるか、は、その入り口や出口にある標識で知り得るだけです。  しかし、日本語の場合でも、昔は、また、印欧語では、現在のフランス語のように、文を書きながら、これが現実か、仮定か、と意識していたと思われます。 Q 現代語では、反実はどのように表現されているか。 A 普通、たとえば、とか、もしも、などという副詞、かもしれない、などの表現、はずなどという名詞、と多種の方法が使われます。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法三十八 表現とは■  何かを表現したい、というとき、たとえば、何かを否定したい、というとき、たとえば、日本語では、動詞+ない、という形を使い、英語では、do not という形を使い、フランス語では、ne ... pas という形を使う、等等というように、その言語によって決まった動詞、助動詞、副詞などを使います。  こういう、文法の品詞分類とは違う、内容の立場からの分類を、表現、ということばで表したい、と思います。  表現には、上述の否定、前述の反実、過去、など、いろいろのものがあります。これらの表現は、言語によって、どういう品詞、あるいは、単語を使うか、ということは大体決まっています。しかし、逆に、特定の品詞が、ある表現のために、どの言語でも通用するわけではありません。  このように、表現は、文法、品詞、用語などを使って表されます。ある場合には、特定の形を持たず、文意、前後関係の中に拡散してしまう場合もあります。 Q 表現とは、正確に定義され、また、分類されることができるのか。 A 表現とは、特徴の集まりである、とお考え下さい。全体としてどういうものがあるか、というより、また、正確にどう定義するか、というより、どういう特徴が抽出されるか、というところをご注目下さい。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法三十九 基準文体とマンネリズム■  短歌を作るときの、基準文体、とは、平安朝時代とか、現代口語とかの文法体系、語彙の体系だけでなく、それに固有の発想法、あるいは、マンネリズムが付属しています。  従って、ある短歌を別の基準文体へ移す、ということは機械的には、簡単にはできません。一旦基の歌を忘れ、同じ心で、始めから作り直すことをお勧めします。  逆に考えると、たとえば、平安時代の文法、語彙、を使っても、古今集のお歌のような短歌が、かならずできるわけではありません。別の発想法を持つ短歌がまだ生まれる可能性がある、ということになります。 Q 基準文体とマンネリズムは、不可分であるのか。 A 基準文体、というのは、一つの、定規のように確定した規範ではなくて、ある基準を本にして集まった多くの作品から抽出されるものである、とお考え下さい。  多くの作品があるわけですが、それらは多く、その基準文体を介して相互作用して生まれた、という経緯があるため、その結果としてある特徴のある表現法のものが多くなってしまうわけです。  従って、既存の作品、という意味では確かに基準文体とマンネリズムは不可分ですが、これから、その基準文体を用いてなにかを創作しよう、とする立場からは、そのマンネリズムは一つの参考にはなりますが、規範ということにはならない、と思います。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法四十 言葉は目から覚えよう■  一般に、ことばの語彙、文法的形式には、耳から覚えて口に出るという形で伝わる無教養方言、と、目から覚えて、手で書くことによって伝わる、という教養方言があります。  注意しなければならないことは、技術的専門的用語は、殆ど教養方言である、ということです。こういう専門用語は、それぞれの分野でちゃんと定義され、それぞれの具体的内容に応じて使われています。従って、これらの用語を小耳にはさんだ、という程度で使うのは、たいへん危険で、読者に変な感じを与えたり、あるいは、誤解をさせたりするもとになります。 Q ことばは、耳から覚えるのが本筋ではないのか。 A 確かに、ことばは眼ではなくて、耳から覚えるべきである、と主張する人が多くいます。その人たちが考えている、ことば、とは、多くの場合、会話文、簡単な挨拶文などのことです。こういうことばは、勿論耳から覚えるのが一番いいでしょう。  しかし、ことばの世界はもっと広く、深いものです。殆ど発音されることはないけれども、非常に良く使われ、重要なことばが、少し、高いレベルの世界には、たくさんあります。こういうことばは、それを使っている人に見習って、眼から覚えることが本筋であると思います。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法四十一 教養方言・無教養方言■  紙の発明以来、ことばには、耳から口へと伝搬する無教養方言のほかに、目から手へと伝搬する教養方言が発生しました。  無教養方言は、それぞれの個人の理解と記憶に頼るために、かなりの速度で変化して行きます。これに対して、教養方言は、紙や、CDROMなどという安定した媒体に頼るため、変化することが少なく、個人の理解を超えて続いて行きます。  日常使う動詞、名詞、あるいは、慣用句などは、勿論、流行語などは、無教養方言ですので、耳から覚えるべきですが、変化も激しいです。これに対して、教養方言は、それぞれの分野で、しっかり定義されていることばが殆どです。従って、これらの分野を正しく勉強して理解することが必要です。教養方言は技術的な内容によって変化することはありますが、ことばだけの理由で変化することはありません。  英語のようなほかの言語と比較すると、無教養方言は、その意味を考えて意訳する必要があります。これに対して、教養方言ではその分野で対応する訳語が決まっているので、これらは直訳しなければなりません。 Q 無教養方言という言い方は差別的ではないのか。 A 勿論、もっと良い表現がありましたら、お改め下さい。 Q どういう場合でも、文章は意訳するほうがいいのではないか。 A 勿論、文章は、全体として、意訳するほうが読みやすいわけですが、専門的、技術的な、教養方言に属するものは、それぞれの分野において、決まった訳がある場合が殆どです。こういう用語を、適当に意訳することは、間違いです。 Q 短歌としては、教養方言、無教養方言を意識すべきか。 A 勿論、どちらを使うかは、そのお歌の趣旨に応じて、自由に使うことができると思います。 Q 短歌自体は、教養方言なのか、無教養方言なのか。 A 万葉の昔と違い、現在は、短歌は、眼で読まれることが殆どです。従って、教養方言に属する用語も自由に使うことができるわけです。  しかし、短歌も朗読して流通すべきである、という立場もあります。このような短歌では、耳で聞いて心が伝わるように、設計する必要があります。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法四十二 否定完了ぬ・一回完了つ■  いつも問題になる、否定完了ぬ・一回完了つ、ですが、次ぎの例を使うとたいへん良く理解できます。  否定完了ぬ の用例として、「風と共に去りぬ」。これは、Gone with the wind の訳ですが、これは、小説、映画の題名で、その粗筋、つまり、女主人公スカーレット・オハラの経験した、タラの栄華−南北戦争−戦後の荒廃、という否定され完了した昔と現状との対比、というストーリーを、否定完了ぬ、の一語で表現していて、誠に適訳である、と思います。  一回完了つ、の用例として、百人一首にある 81ほととぎす鳴きつる方を眺むれば ただ有明の月ぞ残れる 後徳大寺左大臣  があります。ほととぎすが、テッペンタケタカと一声高く鳴いたのでしょう。 文字通り、一回完了です。これは、 ほととぎす鳴きつる方に呆れたる後徳大寺の有明の顔  という狂歌のほうが、より良く、一回完了つ、の性質を表しています。  このように、助詞などの意味は、それが付く動詞などの意味を規定するのではなく、全体の文意を表している場合があるのだ、ということにご留意下さい。  否定完了ぬ、のように、平安時代が基準になっている単語は、それ以後の後代の方の用例は、平安時代文体に対する理解把握の程度が、人毎に異なるので、これらを規範としてはお考えにならないことをお勧めしています。 Q 助詞などの意味は、それぞれが動詞等に付いたところで、完結しているのではないか。 A 勿論、それらが付いている動詞において、意味が完結しているものもあります。しかし、上記のような例では、文意全体に拡がって、その意味を規定しています。  逆に、文意全体に意味があり、助詞自身には、それほど重大な意味のない場合もあります。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法四十三 ふりがな■  短歌に振りがなを付けることは、特に難読の地名人名というわけでもなければ、なるべく避けるほうが、読者にとって親切であると思います。  教科書等で決められた訓でない、ちょっと難読か、という漢字にいちいち仮名を振ることがありますが、読者としては、仮名が無くとも読めてしまう場合が多く、かえって煩わしいものです。  また、二通り以上の訓がある場合、そのどちらかである、というために振りがなを付けることがあります。この場合も、前後の関係、あるいは、字数から、いずれかである、とわかることが多く、あまり必要とは思いません。かならず、その訓で読んで欲しい場合は、仮名書きにするか、あるいは、その訓が誘導されるような漢字を使えばよろしいと思います。  また、漢字とは別の振りがなを付けて、これを並列させて、何かを表現しよう、とする平行振りがなが使われる場合がありますが、これも、読者にとっては、たいへん煩わしいものだ、と思います。同時平行表示は、読者の内的な理解に任せるほうがよろしいでしょう。  一般に、漢字の読みは、読者に任せる、というのが一番よろしいと思います。 Q 振りがなは、一般読者には便利ではないのか。 A 教育的な意義を、振りがなが持つ、ということは確かです。しかし、現在、新聞雑誌文学など一般が、振りがな無しの表記を使って、それで十分に伝達が出来ていることを考えると、過剰な振りがなは、やはり不必要である、と思います。 Q 振りがなによって、二つの意味を並列表記することは間違いか。 A 文学というものが、基本的に、一次元的なことばの配列から成り立っていることを考えると、配列の複線化は、やはり邪道と考えています。  意味の複線化は、ことばの持つ内在的な意味を積極的に活用することによって成し遂げるべきであると思います。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= 短歌の技法 藤井 陽一 MAG00736@nifty.ne.jp -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法四十四 薄く濃き■ 薄く濃き野辺の緑の若草に跡まで見ゆる雪のむら消え  宮内卿(新古今) きのふ雪が降りました、とふ君が袖にちひさき白き梅のありけり。 もぐら  これは、形容の接続の問題です。 サッカーの応援のような情景をお考え下さい。 一 単数  一つの対象を、二つ以上のことばで形容します。 A連体連体並列  赤い大きい旗を振っていた。 意味から考えて、二つの形容詞が独立に形容していることが明確です。 B連用連体並列  赤く大きい旗を振っていた。 意味を考えないと、後述の副詞的形容と混同される欠点があります。 C連用連体形容  濃く青い旗を振っていた。 意味を考えて、後続の形容詞を副詞的に形容していることがわかります。 二 複数の対象  二つ以上、複数の対象があるとき、それぞれを形容します。 A連体連体 対立  こちらでは赤い旗、あちらでは青い旗を振っていた。  略して 赤い、青い旗を振っていた。 二つ並列に存在していることが明確になりますが、機械的印象です。 B連用連体 対立  こちらでは赤く、あちらでは青い旗を振っていた。  略して 赤く、青い旗を振っていた。 文法的流れは自然ですが、単語の意味を考えないと、 後述の連用連体並列あるいは形容と紛らわしい欠点があります。  平安時代にどうだったか、ですが、この辺の文法は当時と変わっていないので、 現在と殆ど同じ感覚であったと考えてよろしいのではないでしょうか。  宮内卿のお歌は、この二Bに相当します。 もぐらの場合は、一Cと取られることを避けるために、一Aに致しました。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法四十五 かなづかひ■  新仮名遣いは、戦後制定され、当時の現代文のみに適用される、となっているところから、それ以前の、文語、古典語文体、あるいは、戦前口語文体のお歌は、歴史的仮名遣いを準用するのが一番よろしいと思いますが、如何でしょうか。  戦後の口語、現代語文体のお歌は、新仮名遣いをお使いになるのは当然です。 Q 文語系の文体でも新かなづかいを用いても良いのではないか。 A 短歌を普及させる、という目的で、仮名遣いを調べる面倒を省略する、という意味で、新仮名遣いを使うことは、一定の意義がある、と思います。しかし、本質的にこれは手抜きの一種ですので、いろいろな混乱を生じます。  この理由で、上述のように、それぞれの文体に適合した仮名遣いをお使いになるが最良、と思います。 Q 短歌には短歌文体があるのではないか。 A これは、以前申し上げたと思いますが、短歌のような詩の文体は、普通の散文と離れて独立に存在するのではありません。それぞれの対応する散文文体の中に根を持ち、そこから発生、発展して来るものと思います。短歌についても、その本となる、いろいろな文体の日本語が、その母胎となって、その文体が作られていると考えるべきだ、と思います。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法四十六 生きとし生けるもの■  「生きとし生けるもの」は、古今集の序にあらわれる慣用句ですから、それ以前に既に慣用句化していたのでしょう。  前半の、生きとし、の、と、は、ありとあらゆる、 におけるように、並列強調ということですが、と、は意味から考えて、て の転訛のようです。し、は反実強調です。  後半の 生けるものでは、ける、は、生き+ある、の縮まったものです。万葉の時代には、i+a->e という変化がいろいろなところに見られます。結果として、四段活用の已然形+継続完了の り ということになります。  全体の意味は、生きている生きつづけているもの、ということになります。生ける、は現代人にはわからないらしく、Yahoo!で検索すると、生きとし生きるもの、と書かれた例が多く見られます。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法四十七 ちぐはぐ短歌■  一般に、短歌の文体は、一つの基準文体を中心としてつくられます。従って、その中で使われる用語は、その基準文体の中から選ばれることになります。  たとえば、AAAAAAAAAAAAAAAAAAAA、というわけです。  その中に、別の世界の単語、用語、用法を入れる、たとえば、日本語に英語、現代語に古語、東京弁に関西弁、口語に文語...という場合です。AAAAABAAAAAAAAAAAAAA、というわけで、その部分がたいへんに目だちます。これは、作歌のひとつのテクニックです。  その応用目的は、 ◎ポイントとなる用語をきわだたせ、緊張を高める。これは、AAAの部分をきちんと整えた上で行うと、効果を高めます。しかし、読者に、単なる言い替えじゃないか、と思われては、逆効果になります。 ◎直接話法。お歌の中に、たとえば、関西弁の方のようなことばを直接入れる。 これは、話者の個性特徴を際だたせる、という特徴があります。しかし、単なる言い替え、あまりしつこくなるのは考えものです。 ◎固有の事物、外国語、古語などで、普通の日本語では説明できない事物には、そのことばを使わざるを得ない、という場合があります。この場合、それが、ポイントとなる場合はよろしいのですが、そうでないところに使うと、一般には、読者の理解の妨げになります。 ◎知識をひけらかしたい、あるいは、単なる思いつき。これは、読者には、まったくありがた迷惑です。  というわけで、こういうちぐはぐは、作歌技術としては、かなり高級で、かならずしも、いつも百点が取れるわけでもありません。従って、十分ご検討の上、ご活用下さい。 Q ちぐはぐ語は、何時も意識して使わなければならないか。 A おっしゃる通り、意義もなしに使われるちぐはぐ語は、読者にとって混乱そのものになります。逆に、ちゃんと計算された場合はたいへん効果を上げると思います。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法四十八 癒せし■  過去(否定過去)の、せ・し・き・しか、は、動詞の連用形につく、ということになっています。しかし、癒す、為す..などは、サ行四段活用動詞ということになっています。従って、癒しし、癒しき、などとなるはずです。  ところが、サ行変格動詞す、に対しては、例外的に、せし・しき・せしか、のように付きます。この理由は、多分、し・き などは、いろいろな要素の寄せ集めだからでしょう。右記は、勿論、平安時代文体に対してです。  中世以降は、為す す の間で、意味も同じなので、類推による変化が起こり、為せし、癒せし、のほうがむしろ普通になった、ということです。 Q 癒しし、という語形は間違いか。 A 間違い、というわけではない、と思いますが、少なくとも、平安時代文体においてつかうことに限定されたほうがよろしいと思います。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法四十九 異語同義■  一般に、ことばが同じであれば、意味も同じというわけでもなく、それが使われる場合、それぞれの用例によって別の意味を持ちます。その逆で、語形が異なるから、かならず意味も異なる、というわけではありません。  短歌でも、の如、の如く、の例のように、殆ど語数、語感で使い分けている場合、または、するんです、するのです、のように、文体によって使い分けられている場合もあります。このように、語形が違えば意味が当然違う、とは、一般に即断できません。語形が違っても、実質的に意味が同じである場合があります。 Q 語形が違えば、意味が違う。作者も当然それを期待しているのではないか。 A 勿論、そういう場合もある、と思いますが、多少の語形の違いはほとんど意識せず、大体同じ、として使う場合が多くあります。特に、ありふれたことば、頻繁に使うことばでは幾つかの形があることがありますが、その使い分けは殆ど気分次第、ということが多くあります。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法五十 体言なり、用言なり■  叙述をあらわす、なり、には、二通りあります。  一つは、体言につく、体言なり、で、断定、というより、性質、所在などの叙述、というほうがよろしいと思います。  もうひとつは、用言につく、用言なり、で、これは、一言で言えば、動作の叙述、とお考え頂ければよろしいと思います。  用例を、下記に幾つか捜して調べて見ました。 ○一 葦原の中つ国はいたくさやぎてありなり 記上 それ葦原の中つ国はいたくさやげなり 神武紀  上代の用例は少ないので、決定的なことは言えませんが、上記のように、形容語と組み合わせ、その主語の性質を叙述していると見られます。 ○二A ますらをの鞆の音すなりもののふの大臣盾立つらしも 万一・76 吉野なる夏実の川の川淀に鴨そ鳴くなる山陰にして 万三 秋の野に人待つ虫の声すなりわれかと行きていざとぶらはむ 古今秋上・202 大和には鳴きてか来らむ呼子鳥象の中山呼びぞ越ゆなる 万一・70 我のみや夜船は漕ぐと思へれば沖辺の方に梶の音すなり 万十五3624  主に万葉に見られる用例で、「なり」が音響を表す「鳴り」から来た、という説の論拠になっているものです。しかし良く見ると、音、と言っても、その前段において、どういう音であるかは具体的に述べられていますので、「なり」が殊更に音を表す、と考える必要はないと思います。単に、その音を含む情景の叙述だ、と見ればよいと思います。 ○二B 天の川河門に立ちてわが恋ひし君来ますなり紐解き待たむ 万十 少女らは思ひ乱れて君待つと心に恋ひすなり心ぐしいざ見に行かな 万十七 梅の花今盛りなり 万・五 千万の軍なりとも言挙げせず取りて来ぬべき男とそ思ふ 万六 汝をと吾を人そ離くなる 万四660  これらの例は、その動詞の動作を客体化して叙述しています。 ○三A 明けはてぬなり。帰りなむ。 枕・故殿の御服のころ161 とのゐ人も皆起きぬなり。 源・浮舟 人げ遠くして物怖ろしといふなれば長押のしもに人々臥していらへすなり 源・帚木 かかるとみの事に誦経などをこそはすなれとて..阿闍梨物せよといひやりつるは 源・夕顔 弘き殿は、月のおもしろきに夜更くるまだ遊びをし給ふなる 源桐壷 心恥かしき人住むなる所にこそあんなれ 源若紫 弓弦いとつきづきしくうち鳴らして、「火危ふし」と言ふ言ふ、預かりが曹司の方に去ぬなり 源夕顔  これらの平安時代の用例は、情景に関するものです。これらは事実の叙述と考えることができます。これらの用例では、単に、その叙述の対称となる動作内容が示されているだけです。たとえば、第三者などを挙げて、それが情報源である、というような記述はありません。従って、これは、仮に第三者経由の情報だったとしても、それが、新聞報道のように、周知当然の事実として捕らえられていることを示します。そういう意味で、これらを事実叙述というのが適当だ、と思います。 ○三B この野はぬす人あなりとて火つけむとす 伊勢 光源氏名のみことごとしう、いひ消たれ給ふとが多かなるに 源・帚木 おとどもしぶしぶに思したるは、よからぬ女どもあまたあひ従ひて侍るを聞召しうとむななり 源・玉鬘 大納言の外腹の娘奉るなるに、朝臣のいつき娘出だし立てたらむ何の恥かあるべき 源・少女 海龍王の后になるべきいつきむすめなり 源若紫 人の程にあはねば、とがむるなり 土佐 男もすなる日記 土佐 女もして見むとてするなり 土佐 また、聞けば侍従の大納言の御女のなくなり給ひぬなり。 更級  これらも、それぞれの事実、動作を叙述しているとみられます。聞けば、という語があるものは、第三者からの情報であることがわかりますが、なり、自身よりも、聞けばのほうにより伝聞の意味があるのだ、と思います。 ○四 奥山に、猫またといふものありて、人を食らふなると、人のいひけるに 徒然・八九 公世の二位の兄に良覚僧正と聞こえしは 徒然・四五 徳の至れりけるにや 徒然・六十 このことどもは、寂照の弟子に、念救といふ僧の共に行きたりけるが、この国に帰りて伝へたるなり。 今昔十九・二 底に「今は引き上げよ」と言ふ声聞こゆれば、「そは引けとありなるは」と言ひて 今昔二十八・38 思はずなり 信濃にあんなる木曾路河 平家六 今日九郎が鎌倉へ入るなるに各々用意し給へ 平家十一 手枕に身を愛すなりおぼろ月 蕪村  これらの中世以降の用例では、同様に事実の叙述である、と見ることができます。ねこまたの例のように、人のいひける、ということばが、第三者からの伝聞であることを示しています。なり、は、その情報を事実と信じて、次ぎの行動へ移る、という、事実の叙述をあらわすと考えられます。 ○五 難所な行きにくい国ぢゃを、深々と行れたぞ  中世以後、「なり」は、より口語的な、「だ、ぢゃ」に取って変わられます。事実の叙述という意味は引き継いでいます。 ○六  現代は、この「なり」に対応することばは、のである、の系統です。これが動作叙述を表しています。但し、昔の、「すなる」のような連体形は、のである、ではなく、翻訳口調では、するところの、とか、一般には、「ている」のいろいろな意味の中に吸収されているようです。  従って、土佐日記の例は、次ぎのように明快に直訳することができます。 「男が書いている日記を、女の私も書いて見たくて書くのです。」  上述のように、なり、は、伝聞推定、断定、と昔からの用語で言われていますが、今の立場からいうとかならずしも、的確な表現ではないようです。なり、は、非常に広い意味ですが、具体生の少ない、軽いことばですから、一応、叙述、ということで、文脈、前後関係を精査する、という方針がよろしい、と思います。 Q なりは音ではないのか。 A 上述のように、「なり」だけで音を表す例はないようです。 Q 伝聞推定、断定という定義は不適当か。 A 上述の例のように、「なり」自体が重要なポイントになる意味を持っているわけではなく、ある事実の存在を示すだけ、と考えるほうが、より実態に合っていると思います。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法五十一 女房名前■  紫式部、清少納言などの女房の名前は、現在記録が失われたため、不明になっています。記録がある皇族については、定子、式子、などと判っています。例外として、としこ、という女房が判っています。  女房の名前が不明になったのは、女性の地位が低かったから、と言われます。確かに女性の名前は政治的に重要性が低かったので、しっかり記録されなかった、ということは確かだ、と思います。  もう一つの理由は、女性の名前を口に出していうのが失礼だからです。「式子さん」、などと内親王様の目の前でいうのは、勿論、おおいに失礼です。  この感覚は、われわれの日本社会で、現在でもつづいている習慣です。  現在、我々は、たとえば会社で、板倉社長の奥さんを、板倉秋子、などと本名で呼ぶことは、公式の場合を除き、失礼ということで避けます。普通、そういう場合、社長の奥さん、と呼んでいます。それと同じ理由で、経理課長の奥さん、営業部長のお嬢さん、という感じで、清少納言、和泉式部、などという呼び名ができました。平安時代の文学は、マスコミに発表するわけでもなく、社内廻し読み、というレベルですから、それでOKなのです。  しかし、その廻し読みの中にも、本名を書くことが普通だっら、たとえば、紫式部が、日記に、「清原?子ちゃんはでしゃばりだ、」と書けば、少なくとも、清少納言の本名は残ったわけですが、そういうことはありませんでした。 Q 女房名前が残らなかったのは、女性の地位が低かったからではないか。 A 女性の、特に、公式の立場は低かったので、記録が残らなかったということは勿論です。しかし、現在見るように、例外なく、徹底的に残らなかった、というのは、上記のような心理的要素がある、と思います。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法五十二 朗読短歌■  現在、普通、短歌は声で朗読せずに鑑賞されています。しかし、声でなくても、目で朗読していることがあります。更に、本当に、口で朗読されることもあります。  このように、口、あるいは、目で朗読される短歌には、どういう条件が必要か、を考えて見ます。 ○リズム感 これが朗読短歌のためには、基本的条件です。短歌自身の持つ音楽性、韻律性が必要です。この韻律性を取得するためのには、一つの方法があるわけではなく、同語類語の繰り返しなどの音律、ことばの意味の配列から生ずるリズム感が、基本的な技術であると思います。 ○意味の明確性 非常に大切です。意味を考えていては、リズムなどに関心は行かなくなるでしょう。教養方言は耳から聴いてわからない場合があるので、注意が必要。無教養方言は、耳だけに依存するので、逆に意味が不明確になりやすく、これも注意する必要があります。 ○朗読法 歌会始のような古典的な場では、伝統的な朗詠法が決まっています。そのほかの朗読の場では、朗詠法は、一定のものがりません。散文朗読のようにするか、旋律をつけたり、あるいは、伴奏音楽を用いるなど、全く自由にすることができます。所作を入れて、演劇的要素を導入することも効果的です。 ○対称を利用 相手を設定し、それに対して呼びかけ、対話を行うことは、朗読上の基本的な要素であると思います。 ○対話 複数の人の対話形式の朗読。バトルとかボクシングとか言われる形式ですが、演劇的要素が大で、たいへん効果的であると思います。 ○連作、長歌 これは、朗詠法としてより散文性が強くなり、演劇的になります。これによってたいへん効果を高くすることができます。 ○朗読用に作る 既作の短歌朗読ではなく、朗読用という立場から、韻律性を高めた短歌を創作することがたいへん有効です。この場合、朗読者の声の性質、個性を考えて作ると一層効果を高めることができます。 Q 短歌朗読において、音楽の伴奏はどう考えるべきか。 A 一般に、音楽伴奏は必要である、と考える方が多いようですが、実際には、音楽には音楽の独自の主張があり、これが短歌の主張と旨く調和する、という場合は、非常に少ないものだ、と思います。 Q 短歌朗読での即興性についてはどうか。 A 即興での短歌朗読は、たいへん興味のある分野であると思います。その場合、自閉的にならず、聴衆を取り込んだオープンな形が望ましいと思います。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法五十三 音便■  音便とは、規則的語形から、前後の音の影響によって、より発音しやすい語形に変化すること、というふうに定義することができると思います。  日本語の場合は、規則的語形変化は、主に動詞の活用において生ずるので、音便は、従って、主に、動詞の活用に関連して生じます。 ○ら変音便 平安時代の前に生じたようです。 rn、rm音便 「あるなり、あるめり」が「あなり、あめり」などと変化。問題は、この時代、「ん」に対する字が無かったため、実際の発音が、「あなり、あんなり」のいずれかが不明確である、ということです。これは、現在は消滅しています。  この種の音韻変化は、いろいろな言語で起こっていて、たとえば、ハングルについても同様な現象がみられます。 rb音便 同様に、「あべし」など。これは、今も方言に「あんべ、あっぺ」などという形であり、この音便の中間音がいろいろな形だったことを示しています。 ○る、り音便 中世戦記物に良く使います。そのような基準文体でご利用下さい。 りぬrin音便 「終んぬ」は、「終りぬ」の音便です。意味、文法は同じです。 同類に、「をはんぬ、さんぬる」など。 るぬrun音便 「ござんなれ」などがあります。 ○むん音便 中世以降、未然形につく「む」が「ん」と発音されるようになったことを反映しています。この時代は、「ん」の字が出来た、ということも契機になっています。「む」は文法通り、「ん」は、中世以降の発音通りの崩れた表記、ということです。 ○D音便 濁音、撥音の後のTがDになる音便です。平安時代以降、かなり長い間に発生したようです。 ZD音便 「ずて」が「で」。音便と言われないようですが。 nit音便 「なかにつく」が「なかんづく」、「にて」が「で」に。 口語の撥音便も同様です。 ○う音便 関西にて発生した音便。語尾のkがうに。 ○口語動詞音便 中世以降、現在の口語動詞活用連用形に生じた音便です。 撥音便 「びて、みて、にて」が「んで」に。 い音便 「kit」が「it」に。 促音便 「tit」が「tt」に。 ○短縮 「られる」が「れる」になるように、同類音の重複が省略される。  このように、音便は、耳から覚える無教養方言的に発生するものです。従って、普通、いろいろな音便形が、非音便形と、ある程度の範囲で併存しているものです。 Q 音便形は、作歌の場合どのような注意が必要か。 A 音便形は、上記のように、いろいろな形があるわけですが、それぞれが、固有の基準文体に対応して、認められた存在である、という特徴があります。従って、音便形のみを対象とするのではなく、その元になっている基準文体のどれを採用するか、ということが基本である、と思います。 Q 音便、特に、撥音便などは、どのようにリズムを取るべきか。 A 撥音便は、実際の発音が明確でない点がありますので、十分注意して、その基準文体の用例に従ってリズムを考えるべきだ、と思います。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法五十四 四季と人生季■  俳句における、季の役目を考えて見ましょう。俳句が、連歌から発生したことを考えると、「季」とは、座の意志統一のために、最適な指標だった、ということです。  複数の人が連歌をやっているとき、勿論、それぞれの参加者にはそれぞれの思いがあります。それを勝手に書いて行ったのでは、当然、統一した連歌には鳴らないでしょう。  その指標として、「四季」は、たいへん優れた性質を持っています。 まず、「四季」は、老若男女誰にでも共通に存在し、しかも、たいへんありふれたものです。春、という季については、いろいろな考えがあるわけですが、春、という共通項で集約することができます。  また、「四季」が指標として優れている点は、周期性です。冬の次ぎに、また春が来る、ということは、連なりの恒常性を保証するものです。  人生季は、これに対して、生、成長、老、死を指標とするものです。人生のそれぞれの段階は、すべての人が経過するわけですから、その座の人々を、この指標で統一することが可能です。  しかし、人生季が、四季に比べて劣る点は、人生、の段階について、老若で理解度が異なる、という点です。老人は、青春時代、成熟時代のそれぞれを体験して知っていますが、若い人は、老年は、経験ではなく、単に観察によって知るだけです。これは、一座を構成する人の知識が異なるということになり、不公平の元です。  更に、もう一つの欠点は、人生には、周期性がない、ということです。基本的に、死の次ぎには、何もありません。座の恒常性は、たいへん不安定になってしまいます。 Q 人生季では、座を作れないのか。 A 上記のように、欠点は多いのですが、それを理解できる人々の集まりでは、ひとつの新しい可能性が生まれる、と思います。 Q 具体的には、人生季は、どのような流れで座を作ることができるか。 A いろいろな可能性があると思いますが、一例として、生から死、死から再生、性と生などの流れが考えられます。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ■短歌の技法五十五 集団的相互作用の役目■  短歌だけには限らない、と思いますが、人は、何故集まって短歌を作ろうとするのか。こういう集団的な相互作用は、文学的マンネリズムを創出し、発展させる、という役目がある、と思います。それぞれの作者、作品の独創性よりも、その時代、その人々が集まった結果としての独創的マンネリズムを作り出す、という意義があります。 Q 集団的創作は、作者の独創性とは関係がないのか。 A 集団的創作は、集団としての独創性を作る、ということは、歴史上のいろいろな例から見ることができます。これに対して、作者の独創性に対しては、集団は、決定的な影響を持っていないように思います。 Q 上記の例はどういうものがあるか。 A 連歌と芭蕉、が一番端的な例だ、と思います。 Q マンネリズムの創出は悪いことか。 A そのマンネリズムが指向するものだけが目標となり、「なんでもあり」を悪、と思うようになる、という点が欠点と思います。 Q 集団的マンネリズムの欠点は何か。 A それは、勿論、マンネリズムに依存しない独創性を圧殺することにあります。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=