;================================ ;恋衣.J ;-------------------------------- 白百合 山川登美子 7.1髪ながき少女とうまれ、しろ百合に額は伏せつつ君をこそ思へ。 着つ見つつ髪の長きを恨みぬれば、けさしみじみと秋立ちにけり。 もぐら 人知らぬ頃に延ばせし髪は、けふ人に別れしゆゑに切るなり。 もぐら 8.4手もふれぬ琴柱たふれて、うらめしき音をたてわたる秋の夕かぜ。 さらでなほ琴の音深く恨みぬれば、黄鐘調の秋の風渡る。 もぐら 御手わたる琴の十あまり三筋にも、秋の調べの響くなりけり。 もぐら 9.1何といふところか知らず思ひ入れば、君に逢ふ道うつくしきかな。 ひとを知り初めしがころに咲きゐてし、垣の小百合も枯れにけるかな。 もぐら 人恋ふがゆゑに通ひし小路、なほ籬の菊も変はらざりとふ。 もぐら 9.2このもだえ、行きて夕のあら海のうしほに語り、やがて帰らじ。 暗き海に浪頭のみしろくして、恨みもはてぬ我が心かな。 もぐら 知らぬままに生れし海辺の家を捨てて、都なる身に潮なほ満ち来る。 もぐら 9.3この塚のぬしを語るな、名を問ふな。ただすみれぐさひとむら植ゑませ。 いふがままに白百合ひともと手向けては、けさの小浜は雨模様なり。 もぐら ありし人のかたみと白百合もとめては、寺下の道通ひ初めけり。 もぐら 10.2わが息を芙蓉の風にたとへますな、十三弦をひと息に切る。 湧き出づる泉もけふは涸れにしか、琴柱にそよぐ春風も無し。 もぐら 恋ふゆゑの今尽きぬれば、秋風の吹き来る侭に琴を捨てなむ。 もぐら 10.3またの世は魔神の右手の鞭うばひ、美しき恋みながら打たむ。 知らぬ間に心は魔境に入りにしか、思ひもえせぬ夢を見にけり。 もぐら 人と鬼と共に棲みたる現世を知るや知らずや、けふ風わたる。 もぐら 11.1うつつなく消えても行かむ、わかき子のもだえのはての歌ききたまへ。 ひとの世の儚きゆゑにか歌こころ、湧くとも知らず涸れにけるかな。 もぐら 思ふままに出でける歌は、我けふを生きてしことの証しとぞ思ふ。 もぐら 13.1にほひもれて人のもどきのわづらはし、袖におほひていだく白百合。 なにゆゑの白百合なるかは知らねども、京の小路に抱く人あり。 もぐら 生きてゐて、なほ白百合の花ひとつ咲きしを知りし、若狭の小浜。 もぐら 15.4なにとなく琴のしらべもかきみだれ、人はづかしく成れる頃かな。 思ふままにかなでし調べにあらねども、なほはづかしき今朝の風かな。 もぐら きのふより心乱るることの多き、けふはし秋の風の吹くなり。 もぐら 16.3髪あげて挿さむと云ひし白ばらも、のこらずちりぬ、病める枕に。 病みゐては思ふことさへ無くなりぬ。紅ばら枯れて捨てられにけり。 もぐら 活けむとて切りし白百合知らぬ間に萎れてけりな、熱なほ高し。 もぐら 19.3いもうとの憂髪かざる百合を見よ、風にやつれし、露にやつれし。 なほ昔ありき、の心、我にありて、恋ひてし人のみ思はるるかな。 もぐら ほつれ髪ほつるるままに、秋といふかなしき風を迎へけるかな。 もぐら 20.1うけられぬ人の御文をなげぬれば、沈まず浮かず藻にからまりぬ。 水茎の乱るるままに書きくれば、恋ふも恋ひずもえ分かずなりぬ。 もぐら 恋ふとだにえ書かぬ文を如何にせむ、と薄墨滲む秋の窓かな。 もぐら 22.1地にひとり泉は涸れて花ちりて、すさぶ園生に何まもる吾。 幾たびもこの世にあらぬ我なれば、こころひとつのなほも恨めし。 もぐら 夢ならで現の恋をせまほしくして、えせざりける秋の頃かな。 もぐら 24.2みてづからひと葉つみませ、このすみれ君おもひでのなさけこもれり。 あはれとも思ひし花のけふは散りて、人恨むとふ葉のひとつ芽生へぬ。 もぐら 世にひとつ恋せむならばすみれ花、ちさきすみれ、と思ひけるかな。 もぐら 26.3それとなく紅き花みな友にゆづり、そむきて泣きて忘れ草つむ。 ひと知らぬ間に摘みにける忘れ草なれば、明日はし枯れむとすらむ。 もぐら わすれ草さへ生ふるなき恋といはば、人の道にはあらぬ恋かな。 もぐら 28.1たてかけし琴の緒ひくくひびきたり、御袖のはしも触れじと思ふに。 あはれならぬ秋の風ゆゑ、琴の音もひくく恨みを調ぶるなるべし。 もぐら いつしか、と秋のおとづれ待つ身ゆゑか、風に鳴りたる琴の音を聴く。 もぐら 31.2わが袖も春のひかりの帰らじや、牡丹剪らせて鼓に添へば。 袖に散る京の花こそあはれなれ、人恋ふゆゑを世はし知らねば。 もぐら 京柚子のかほり豊かに秋暮れぬ。明日はし物思ふ時雨降るらし。 もぐら 32.1大原女のものうるこゑや、京の町ねむりさそひて花に雨ふる。 なにやらを鬻ぐ大原女姉小路、けふより秋の風立つらしも。 もぐら 京小路、なにやら物賣る声ひとつ残して、時雨に昏れ掛かりたり。 もぐら 33.4戸によりてうらみ泣く夜のやつれ髪、この子が秋を詩に問ふや誰。 みづからの知る世がゆゑに、みづからをえ知らぬことはゆめゆめ恨みじ。 もぐら 現身の歌詠む時は短くて、花散るよりも儚なかりけり。 もぐら 35.1百合牡丹、犠の花姫なほ足らずば、ひじりの恋よ、野うばらも枕け。 さらば、とて往にし恋ゆゑ、ありあらぬ花のなべては散りてありませ。 もぐら 何の花を恋ひ給ふかは知らねども、佳き人ならば白百合を抱け。 もぐら 36.1いつはりの濁るなみだのかかりなば、この袖たちてまた君を見じ。 夢ほのかなりける空の彼方へと、我また鳥と渡り行かなむ。 もぐら 恋ならば真の恋と思ひしに、あだ言のみに紛れさす君。 もぐら 38.1書よみて智恵売る子とは生れざり、蛇のうすぎぬ値ある世よ。 世の人の言ふ智恵持たぬ我にして、なほ思ふことの二三ありけり。 もぐら 物知らぬをみなとはゆめ思ひますな、まことの恋は人に勝れり。 もぐら 39.1歌よみて罪せられき、と光ある今の世を見よ、後の千とせに。 歌の毒ならば歌にて消つべきを、心の毒は如何に消つべき。 もぐら まこと知らず罪のみを知る世の人のままに、我はし土に還らむ。 もぐら 39.3あなかしこ涙のおくにひそませし、いのちはつよき声にいらへぬ。 思ふままにありてし世にはあらねども、命がゆゑの涙なりけり。 もぐら 夢ならば醒めて散らむを、現身は、ありて恋せし、と声高く言へ。 もぐら 歌集恋衣<短歌新聞社文庫> 平成10年4月11日初版 短歌新聞社 山川登美子 18791909 福井県生 29歳で病没 みをつくし 増田まさ子 43.1しら梅の衣にかをると見しまでよ、君とは云はじ、春の夜の夢。 夢に見し人とはうつつに知らねども、袖の露にぞそを知られける。 もぐら 白梅と知らで手折りし春の夜の夢にも薫る、袖の残り香。 もぐら 43.2恋やさだめ、歌やさだめとわづらひぬ、おぼろごこちの春の夜の人。 何も定めかにも定めと思ひては、人の恋さへ忘れむとする。 もぐら 誇ろふの心なけれど、人の世に花知り歌知ることぞ嬉しき。 もぐら 44.2母恋ふる心わすれて、あこがれぬ。やさしおん手のひと花ゆゑに。 我が母の恋ひせしゆゑに我あり、と恋ひする我は思ひ知りけり。 もぐら たましひはいづれの方の空へ行きし。人恋ふゆゑの思ひなりけり。 もぐら 45.2世にそむき人にそむきて、今宵また相見て泣きぬ、まぼろしの神。 まぼろし、と思ひはせねど、恋ふ人の影だに淡き有明の月。 もぐら まぼろし、と思ひはせねど、見し人の日々におぼろとなるぞ悲しき。 もぐら 47.2人の名も仏の御名も忘れはて、篭に色よき野花つみぬる。 み仏のまうけ給ひし世の花を、摘まむとしては夢ぞ覚めける。 もぐら み仏は許し給ふか知らねども、ひと恋ふゆゑの嘆きしにけり。 もぐら 48.2つらき世のなさけいのらぬわれなれど、夕となれば思あまりぬ。 けふよりは人恋ふ我と思へども、きのふの我ぞなほも恋しき。 もぐら あらまほしき世にあらねども、あらまほしき人ゆゑ我は恋ひ初めにけり。 もぐら 50.1ちる花のしたにかさねてまかせたり、君が扇とわが小鼓と。 散る花に紛ふが如き我が涙、やうやく春ぞ昏れなむとする。 もぐら 君かざし給ひし扇もはなびらの積もるに任せて、京は春なり。 もぐら 50.3みなさけのあまれる歌をかきいだき、わが世の夢は語らじな、君。 人恋ふがゆゑとは知らねど我がなみだ、溢れて消えし春にぞありける。 もぐら 夢語るほどの我が身にあらねども、春の夜毎に苦しかりけり。 もぐら 51.1その御手にほそきかひなをゆるしませ、くづるる浪のはてしなくとも。 打ち寄する白浪のごと依る人のかひなを、夏の枕とぞせむ。 もぐら 白波の思ひのほかにゐます人を吹き寄せ給へ、けふの西風。 もぐら 51.2京の春に桃われゆへるしばらくを、よき水ながせまろき山々。 人を待ち、待ち兼ねてしを癒せ、とかみやこの夏の風そよぐなり。 もぐら 髪に置く桃の花をし佳し言ひし人ゆゑ、けふも恋ひわたるなり。 もぐら 51.3夢に見し白き胡蝶の忘れ羽か、あらず小百合のそのひと花か。 忘れ草ならねどひとひら散りにしを、恋ふ人ありける形見とぞせむ。 もぐら 白百合を忘れじとして、白波の騒ぐ小浜に漕ぎ寄せにけり。 もぐら 51.4泣きますな、師をなぐさめむすべ知る、と小百合つむ君うるはしきかな。 ひともとの小百合に人の命知る、若狭の夏の懐かしきかな。 もぐら 人知らぬ山里なれば咲く花をうるはしみして、袖濡らしけり。 もぐら 52.4この世をも、はては我身も咀はるる、竹ゆく水に沈む日みれば。 賀茂の川に学びし日々を忘れよ、と言ふにや、西の山に入る月。 もぐら 人ゆゑに恋ひせしものを、何かにと言ひて罵るさかしびとあり。 もぐら 53.2うぐひすを春の桜におほはせて、水の月さす夏の夜きかむ。 うぐひすの初音聴かむと思ひしに、いつしかけふはほととぎす鳴く。 もぐら けふよりは夏ぞと言ひてほととぎす、初音に人恋ふこころ知りけり。 もぐら 54.4花こえて、その花をりて垣にそふ、夢のゆくへの家うつくしき。 花に添ひ歩めば人の住む家、と思ひしころの懐かしきかな。 もぐら 知らぬ間に手折りし花にはあらずかし、人恋ふゆゑのかざしなりけり。 もぐら 55.1初秋や、朝睡の君に御湯まゐる、花売るくるま門に待たせて。 春は花夏は氷を鬻ぎ来る京売り人の懐かしきかな。 もぐら 売る花は小百合白百合くれなゐの百合ばかりなる、五月晴かな。 もぐら 55.4まれびとに椎の実まゐる、山ずみの静なる日や、秋の雨ふる。 山里に訪ふ人なければ、たまさかの客の君には椎の実まゐる。 もぐら 赤き色の鳥きて啄む椎の実の数降り増さる、山里の秋。 もぐら 57.1その神のみすがた知らず、御名知らず、夢はましろの百合の園生に。 なみだして夢を見たれば、白百合の花を抱きし人の影見つ。 もぐら 神許し給ふことなき恋ひがゆゑか、夜毎夜毎に苦しかりけり。 もぐら 57.2まぼろしにうつらむものか、わがおもひ紅きむらさき色のさまざま。 夢にのみくれなゐありし、と思ひしに、けふ見る紅を如何とやせむ。 もぐら さ緑にむらさき添へて紅そへて、五月ぞけふ、と誇らまほしかり。 もぐら 59.3このゆふべ、色なき花にまたも泣く、えにしつたなき春のわすれ子。 春を忘れ、夏さへ去りにし拙なさを嘆くが如き、秋の初風。 もぐら 拙し、とのみ言ふ人の多くして恋ひ果てぬまま夏は去りけり。 もぐら 59.4髪あらへば、髪に花さき山みづに、さくらいざよふ清滝の里。 しばらくは紅葉の色に染めて見む、人恋ふ我の長き黒髪。 もぐら 洗ひ髪のかほれるままに、夏の気は人恋ふこころ吹き寄するかな。 もぐら 60.4ながれゆく汝れよ、笹舟しばしまて。この歌染めていのち与へむ。 歌ひとつ笹舟に載せてまゐりたき、人恋ふ京の高瀬川かな。 もぐら 人恋ふの文運ぶらしき笹舟の、寄らむとしては流れ去にけり。 もぐら 63.1ふと倚るに見たるは清き高きまどひ、その昨日もつしら梅の花。 白梅の気高くにほふを知りて、なほ目白の丘は高くありけり。 もぐら かほる花に今朝はし春と知りにけり、人恋ふしらぬ山里にさへ。 もぐら 65.4なぐさめむ人なき寮の夜のさくら、おなじ愁の君にちるべき。 慰むる人、慰めらるる人も無き、山里の秋は深かり。 もぐら 花散ると言ひておこせし人のがり、みやこの便りを風に載せまし。 もぐら 67.4秋の日のこがねにほへる遠木立、そこにか母のありかたづねむ。 黄金色の遥か彼方に、ふるさとの家の木立のちひさかりけり。  もぐら 秋立つ、と人言ひしゆゑか、きのふけふ袖にも露の置きにけるかな。 もぐら 68.4この世にはあらず、と知りしかたらひを、しづかに思ふ森かげの道。 越し方を思ふに儚き夢、とばかり覚むれば、けふも木槿花咲く。 もぐら 儚しと思ひはせねど、人の世は夢ぞと言ひて拒むすべなし。 もぐら 70.1われ咀ひ石のものいふ世と知りぬ。つめたき声に心こほりぬ。 呪ふほかに術をし知らぬ世の人の、拙なささへも我は知りけり。 もぐら 思ひ思ひえい寝ずある我にさへ、世のろふ声は聴こえ来るかな。 もぐら 歌集恋衣<短歌新聞社文庫> 平成10年4月11日初版 短歌新聞社 増田雅子 1880-1946 大阪府生 茅野粛々と結婚 曙染 与謝野晶子 75.2ああ野の路、君とわかれて三十歩、また見ぬ顔に似る秋の花。 別れ来て悲し、と思ふ我にさへ、笑む顔見する秋の花かな。 もぐら 人に似て白しと思ひし野の花も、今朝はし霜にしろくありけり。 もぐら 75.4海恋し、潮の遠鳴りかぞへては、少女となりし父母の家。 茅渟の海を煤煙閉ざしゐるを見て、いまふる里の浜はあらむや。 もぐら 乙女なりし頃に拾ひし貝は今、製鉄所なる敷地の下、と。 もぐら 76.2鎌倉や、御仏なれど釈迦牟尼は、美男におはす夏木立かな。 み仏を仰ぎ弁当を広げたる我にも、情けの花吹雪かな。 もぐら 秋嬉し、散り初めにける紅葉よりみ仏のすがた仰ぎ見しかば。 もぐら 77.1ほととぎす、治承壽永のおん国母、三十にして経よます寺。 女性建てし寺がゆゑにか、垣も庭もその身のごとくゆかしかりけり。 もぐら み仏に仕へまゐらす身ゆゑにか、籬の小菊も嬉しかりけり。 もぐら 78.1髪に挿せば、かくやくと射る夏の日や、王者の花のこがねひぐるま。 ひとことの辛しなどとふ言はぬ人の髪に、ちひさき百合の花あり。 もぐら 白き花とりどり咲きし夏は過ぎて、色は紅葉の秋となりけり。 もぐら 78.4今日のむかし前髪あげぬ、十三を画にせし人に罪ありや無し。 少女たりし頃の写真を秘めおきし、アルバムけふはそと焼きにけり。 もぐら 私は綺麗なのか、と問ひ掛けし少女の頃の写真、出でにけり。 もぐら 79.2里ずみの春雨ふれば、傘さして君とわが植う海棠の苗。 何、と知らぬ間に降り来る春雨を、撰びし如くおとなひ来る人。 もぐら 庭の花の濡れゐるごとく、人を待つ心をも濡らす春の雨かな。 もぐら 80.3三井寺や、葉わか楓の木下みち、石も啼くべき青あらしかな。 餅ひとつ食ひては桜にまみれける、一人旅して三井の寺かな。 もぐら むらさきのゆかり訪ねて、三井寺の紅の桜に逢ひにけるかな。 もぐら 83.1このあたり、君が肩よりたけあまり、草ばな白く飛ぶ秋の鳥。 通ひてし恋ひ路を閉ざす葦の葉のそよぐがままに、秋は来にけり。 もぐら 野の空に翔ぶ白雲よりも速く、やまとの国の秋は来にけり。 もぐら 84.3花に見ませ、王のごとくもただなかに男は女をつつむうるはしき蕊。 散りてなほ儚しなどとは思はざる、実を持つ花は強くありけり。 もぐら 大輪の牡丹の花芯の黄の粉の溢るる如く、夏は来にけり。 もぐら 85.3祭の日、葵橋ゆく花がさのなかにも似たる人を見ざりし。 夢にのみ見し人ゆゑに、都大路ゆく人多けれど見しことはなし。 もぐら みやこには禍つ鬼らの多しとふ。祭の行列の中にそを見つ。 もぐら 86.4眉つくるちさき盥に水くみて、兎あらふを見にきまさぬか。 頬に赤きちさき傷ある訳を問へば、猫を洗ひしなり、と言ふ君。 もぐら 笑ふ兎、歌ふ兎と数へ来て、歌作る兎とならざるや、君。 もぐら 88.2紅しぼり緋むくなでしこ底くれなゐ、我にくらべて名おほき花や。 何の名を持つとも花は花なれば、きのふ散りしも花にしあるらし。 もぐら ひとつ名をもつちひさき花なれば、きのふは散りてその名忘れつ。 もぐら 89.3欠くる期なき盈つる期あらぬあめつちに、在りて老いよ、と汝もつくられぬ。 幾歳と知らぬ命を持つ人の、盈つるも欠くるも天がままなり。 もぐら けふ咲きて明日は散れよ、と言はれてもなほも生きたき人ぞ悲しき。 もぐら 89.4たなばたをやりつる後の天の川、しろうも見えて風する夜かな。 秋らしき白き風吹く淀の川の堤を行きて、昏れにけるかな。 もぐら たなばたを知らぬが如き天ならし、朝より強き風雨なりけり。 もぐら 90.2憂ければぞ、爪に紅せぬ夕ぐれを、色は問はずて衣もてまゐれ。 何色のころもか知らず、乙女子のけふの姿に春風ぞ吹く。 もぐら 憂きがゆゑに鏡の覆ひも取らずある、乙女の心に紅葉散るらむ。 もぐら 91.3水浴みては渓の星かげ髪ほす、と君に小百合の床をねだりし。 枕辺に白百合活けてあらまし、と夏の夕べは昏れ難にあり。 もぐら 我抱き給はむ人がために、けふは山の小百合と採りて来るべし。 もぐら 92.1誰が子か、われにをしへし橋納涼、十九の夏の浪華風流。 中之島巡り巡りて昏れ初めぬ。後は新地の灯に任せてむ。 もぐら 堂島の倉そこ此処に、蝙蝠のひらめく浪速は夏の夕べなり。 もぐら 93.1百間の大き弥陀堂、ひとしきり煙みなぎり京の日くれぬ。 あはれとは思ひはせねど、京の夢ひとつ覚えて五条大橋。 もぐら 妙法の文字焼くほのほに、京の鬼共ら赦しを得むとてざわめく。 もぐら 94.1里ずみに老いぬ、と云ふも、いつはりの歌、と或る日は笑めり、と思せ。 いつはりの歌をつくりて、心なほまほにありしと思ふころかな。 もぐら 老いけり、と思ひはせねど、せうもなき老人なりと人思ふらむ。 もぐら 95.3花とりどり野分の朝にもてきたる十人の姿、よし、と思ひぬ。 余呉の湖に落ちて沈みし星どもの、今立ち騒ぐ長月の夜。 もぐら 友とすべき星はし無くて、長月の余呉の湖はし更けにけるかな。 もぐら 97.2水にさく花のやうなるうすものに、白き帯する浪華の子かな。 恋ふらくの人にしあらねば、姿よしかほよしのみなる道頓堀かな。 もぐら 肥後橋の袂にゐし、とは知らぬ間に暮れなづみける堂島の夏。 もぐら 99.3かへし書くふたりの人に、文字いづれ多きを知るや春の染紙。 ひとことを書かまほしくてえ書かざりし、咎にてありや、桜ひとひら。 もぐら こころ無きひとこと書きて、ふたこと目書きつつ春の涙散りけり。 もぐら 102.2ああ胸は君にどよみぬ、紀の海を淡路のかたへ潮わしる時。 淡路より漕ぎ来る舟の、夕凪に溶けゆくごとき茅渟の海かな。 もぐら 大海ゆ淡路に寄せ来る潮のごと、人思ふ心は高まりにけり。 もぐら 103.4御供養の東寺舞楽の日を見せて、桜ふくなり京の山風。 ありと言ひあらじと言ひて、何時か知らず京はあふひの頃となりたり。 もぐら みやこ何時か葉桜の頃となりにけり、東寺の塔には三日月の影。 もぐら 104.1金色のちひさき鳥のかたちして、銀杏ちるなり、夕日の岡に。 我もまた黄金のいてふの心もて、人ゐる里の空に舞はまし。 もぐら 知らぬ間にいてふの黄金は散り果てて、みやこは冬を装ひにけり。 もぐら 104.2紅梅や、女あるじの零落にともなふ鳥の篭かけにけり。 白梅に白百合添へて、何と知らず紅梅所を得ずにありけり。 もぐら 主、花の許へと去りぬ、と鴬の空音もかなし岩倉の里。 もぐら 108.1酔ひ寝ては、鼠がはしる肩と聞き、寒き夜守りぬ、歌びとの妻。 歌びとの棲まひと知らで、忠とやら孝とやら鳴く鳥かまびすし。 もぐら ひとことの歌も出で来ぬ夜は、知らず棟の鼠も鎮まりにけり。 もぐら 109.1春の夜や、歌舞伎を知らぬ鄙びとの添ひてあゆみぬ、あかき灯の街。 南座はけふが初日と知られけり、紅さす多き四条大橋。 もぐら 河原町四条を東へさんざめき橋渡る人ら、賑はふ顔見世。 もぐら 111.4さは思へ、今かなしみの酔ひごごち、歌あるほどは弔ひますな。 おとなひし人とは知らで、柴折戸のこころ堅きの音立つるかな。 もぐら 百合も梅も薔薇の花さへ散り果てて、歌のこころぞなほも残れる。 もぐら 歌集恋衣<短歌新聞社文庫> 平成10年4月11日初版 短歌新聞社 与謝野晶子 1878-1942 大阪府生